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約束~リラの花の咲く頃に~再会編Ⅰ

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 この季節、北海道では比較的よく見かける花で、この店にも満開のリラの花がブリキのバケツに山のように溢れんばかりに活けてある。
 しばらくの間、莉彩はその場に立ち尽くしていた。
 ふいに背後から肩を叩かれ、莉彩は唐突に現実に引き戻される。
「―和泉君」
 莉彩の唇から吐息のように慎吾の名が落ちた。促されるままにフラワーショップとは続きになっているカフェに入り、入り口近くのテーブル席に座った。
 フラワーショップと同様、カフェのスペースもさして広くはなく、二人がけの丸いテーブルが五つほど置いてあるだけだ。丁度、テーブル席から少し離れた場所、向かいの壁側につるバラが植わっていた。
 よくよく眺めてみると、室内全体が温室のようになっているようだ。向かいの壁一面を無数に花をつけた蔓が這っているので、まるで薔薇で飾られたタペストリーを眺めているような気分になる。
 軽やかに奔放にほとばしるように枝という枝が流れ、桜花を彷彿とさせる淡いピンクが数え切れないほどついている。たくさんの小花を集めた豊かな花房はその重さでしだれ、優しく香る。
 枝は長く伸びて壁を覆い尽くし、まるで花の滝のように流れ落ちて咲き回る。〝ポールズヒマラヤンムスク〟と控えめに記されたプレートが片隅についていた。
 リラの花がここいらではありふれた花であるというだけでなく、恐らくこの店を訪れる誰もがまず最初にこの見事なつるバラのタペストリーの方に眼を奪われるに違いない。
 だが、注文したコーヒーが運ばれてきて更に十分が経過しても、莉彩はリラの花の方をじっと見つめていた。
 彼女の瞳にはリラの花の隣により鮮やかな色彩を見せているチューリップの束も映ってはおらず、ただ彼(か)のひとの見たいと言ったリラだけを映していた。
 その瞳に浮かぶ哀しげな色に、慎吾が気付かないはずはなかった。それでも見ないふりをして莉彩の意識がこちらに向くのを辛抱強く待ち続けた慎吾はやはり、十年前と変わらない。
 二十分が過ぎた時、流石に慎吾がたまりかねたように口を開いた。
「―好きな男ができたんだね」
 莉彩はハッとして眼前の慎吾に視線を向けた。あの頃より、ほんの少しだけ大人になった慎吾、相変わらず女の子にモテそうな甘いルックスで、髪の毛はサラサラとしてキレイで。
 額に落ちた前髪を何げなくかき上げる仕種さえ、十年前そのままに、思えた。もし一つだけ決定的に変わったところがあるとすれば、十年前、その瞳に宿っていた希望の代わりに諦めの色が濃くなったことだろうか。
「今、漸く気付いたよ。莉彩が十年前、突然に別れようなんて言い出したその理由は、俺の他に好きな男ができたからだったんだね?」
 その淋しげな口調に胸をつかれる。莉彩が一度として耳にしたことのないような絶望的な響きがこもっていた。
 だが、けして引き返すことはできない。何をどうしたところで、時を巻き戻すことはできないのだ。自分たちがもう二度と十年前の無邪気だった高校生には戻れないことを、この時、莉彩は、はっきりと知った。
「やり直せないか」
 慎吾が何かの想いに懸命に耐えるような表情で言った。しかし、言葉とは裏腹に慎吾自身、莉彩と彼がもう十年前には帰れないのだと既に悟っているようでもあった。結末の判っている芝居の台本を読むように、慎吾はこんな場合に誰もが口にするありきたりの科白を口に乗せているだけのようにも思える。
「もう二度と昔には戻れないのよ」
 莉彩自身、やはり、こんな場面に相応しい常套句を口にした。
 だが、それは全くの真実でもあった。ここに来るまでに幾度となく考えたように、莉彩が慎吾に対してできることなど、実のところ、何一つありはしないのだ。ただ、慎吾がこんな自分に寄せ続けてくれた想いにちゃんとした応えを出すために、莉彩はここに来た。
 二人の幼すぎた恋の結末を見届けるために。
 莉彩は少し逡巡して言った。
 やはり、このことを慎吾には話すべきだろう。何故なら、莉彩は今日、そのために来たのだから。
「和泉君の言ったことは当たってるわ。私、とても好きな男(ひと)がいるの」
 しばらく慎吾から声はなかった。気詰まりなほどの沈黙が辺りに満ち、莉彩はその静寂に押し潰されそうになる。それでも、逃げることは許されない。これが、自分への罰。
 十年間、いや、慎吾と付き合い始めた十三歳のときから自分の気持ちを直視することから逃げ続けてきた自分への罰なのだ。
 沈黙は唐突に破られた。
「そうだったんだ、で、その男が俺よりよっぽど良かったってわけだね」
 意に反して、慎吾の口調は自らを卑下する風でもなく、淡々としていた。そのことに莉彩は少しだけホッとするとともに、そんな自分をやはり狡い女だと思う。
「どこのどいつなんだよ。十年前に既にその男に惚れてたのなら、いつ、そんな奴と知り合ったんだ? そいつと今でも付き合ってるのか?」
 だが、次いで慎吾の口から発せられたのは到底、同一人物のものとは思えないようなゾッとするほど低い声だった。
「和泉君―」
 何か言わなければと思っても、豹変した慎吾についてゆけない。
 慎吾が鋭く制止した。
「何も言うな! 黙って俺の話を聞いてくれ」
 表情の暗さや鋭さに相反して、その口調には懇願するような響きがある。
 莉彩は思わず眼を見開いた。
「今度、俺の勤務する会社がアメリカにニューヨーク支社を置くことになった。そこで国外では我が社初となるビッグ・プロジェクトを立ち上げることになってる。俺に今、そのチームに参加しないかっていう上からの内示が出てるんだ。恐らく向こうへ渡ったら、数年は日本に帰ってはこられない」
 思いがけぬ話に、莉彩は息を呑む。
 慎吾は製薬会社に勤務している。彼が籍を置くのは薬剤開発部だ。この十年間、慎吾にも様々なことがあった。高校野球ではエースとして名を馳せた慎吾はそのままS大に進んで大学野球でも活躍するかに見えたが、大学一年の夏に野球部の友達と出かけた海で溺れそうになった小学生を助け、自らが大怪我を負った。
 沖合から突進してきたモーターボートを救助した子どもを抱えたまま避けようとしたのだ。間一髪のところを逃れたものの、慎吾自身はよけ切れなかった。結局、肩の骨を複雑骨折した慎吾は、プロ野球選手への夢を断念せざるを得なかった。
 夢に向かって、ひたむきに進んでいた少年時代の慎吾を知るだけに、風の便りに彼を襲った突然の不幸を知った時、莉彩は我が事のように胸が痛んだのを憶えている。
 それでも、慎吾はやはり強かった。夢を失った痛手からも立ち上がり、S大を中退して、別の薬科大学に編入して卒業したのだ。
「いつ―、いつ頃、日本を発つの?」
「五月のゴールデンウィーク明けすぐに発つことになっている」
 もう一ヵ月の猶予もない。莉彩は、ふいに胸が息苦しくなって、小さく喘いだ。
「おめでとうって言うべきなんだろうけど、あまりにも急な話で、びっくりしちゃって」
 莉彩が淡く微笑むと、慎吾は更に愕かせることを言う。
「これが最後のプロポーズになると思う。莉彩、頼む。俺に付いてきてくれないか」
「―!」
 莉彩はうつむき、小さくかぶりを振った。
「ごめんなさい。私、やっぱり―」