約束~リラの花の咲く頃に~再会編Ⅰ
振り絞るように言った慎吾の傷ついた表情が今でも眼裏に甦る。
慎吾のことを最後まで男として見ることはできなかったが、莉彩は彼を大切な友達だと思っていた。その大切な友人を傷つけてまで、選び取った恋。
しかも、その恋はけして叶うことのない見込みのない恋なのだ。それでも。
莉彩は後悔しない。たとえ未来永劫、二度と逢えなくても、莉彩はこの恋に生きると決めていた。生涯にたった一度きりの恋、ただ一人の男のために、これからの人生のすべてを捧げても悔いはないと思う。
恐らく、他の人から見たら、本当に気が狂っているとしか思われかねないだろうが。
コピー室で人数分の書類のコピーを取り終え、莉彩が総務課の自分のデスクに戻ったときのことだった。
片隅に忘れ去られたように置いてある携帯の着信音が鳴った。
ハッと我に返って携帯を取り上げると、それは電話ではなくメールだった。送信者を見ると、〝SHINGO〟となっている。それは、かつて慎吾がメールをやりとりする際、使っていたハンドルネームだ。
画面には〝突然、ごめん。以前、莉彩が使ってたメ―ルアドレスに宛ててメールしても一向に届かなくて、泰恵に電話して新しいヤツを訊いたんだ。今、駅前の花屋にいるんだけど、これから逢えないかな。ほんのちょっとで良い、時間は取らせない。大切な話があるんだ。慎吾〟と出ている。
莉彩は小さな吐息を零し、首を振った。
と、再び音楽が鳴り、今度のメールは泰恵だった。〝莉彩、ごめんね。和泉君から℡があって、莉彩の新しいメルアドどうしても教えてくれって頼まれちゃって、断り切れなかった。ねえ、本当にもう二人は終わっちゃったの? 私がこんなこと言うのは余計なお節介だと思うけれど、やっぱり二人には幸せになって欲しいもの。莉彩、もう一度だけ、和泉君と二人でじっくり話し合ってみたら?〟
去年の六月末に会社員の四つ上の男性と結婚した泰恵は生後五ヵ月の男の子のママである。結婚式を挙げた時、ウェディングドレス姿の泰恵のお腹はほんの少し膨らみかけていた。
〝できちゃった結婚〟で慌ただしく式を済ませたその半年後、泰恵は3,400gもある元気すぎるくらいの赤ン坊を生んだのだ。眼許が泰恵の夫によく似て、くりくりとした丸い瞳の子リス(?)を彷彿とさせる可愛らしい子だった。
一度だけ出産祝いを持って遥香と二人で泰恵のマンションを訪ねた時、泰恵は実に幸福そうに輝いて見えた。頼んで赤ン坊を抱かせて貰ったときの愕き―、こんなにも温かくて柔らかくて、少しでも力を込めれば脆くも壊れそうなほど頼りなげで弱々しい生きもの。
それでも、一生懸命、母親のお乳をむしゃぶるようにして呑み、生きようとしている力強さに思わず涙ぐみそうになった。子どもを生んだこともない自分には想像を絶する出産という行為、更に一人の人間をこの世に送り出し、責任もって育ててゆくこと。
生命の儚さと強さ、そして母親という存在の尊さをかいま見たような気がした一瞬だった。
叶うなら、愛する男の子を授かり、この手に抱いてみたい。女であれば、恐らく誰しもが心に抱(いだ)き、思い描く夢だろう。
だが、自分にはそれも許されないのだ―。
莉彩はすぐに泰恵に返信メールを送った。
〝良いのよ、気にしないで。それよりも、純也(じゆんや)ちゃんは元気? もうすっかり大きくなったことでしょうね。今度、抱っこさせて貰うのを楽しみにしてます〟。
慎吾には返信はせず、直接、駅前の花屋に行くことにする。正直にいえば、慎吾にはあまり逢いたくなかった。泰恵は〝二人には幸せになって欲しい〟と言うけれど、今更、慎吾に逢ったからといって、何がどうなるものでもない。
実を言うと、慎吾に逢うのはこの十年間で、これが初めてというわけではなかった。四年前、大学を卒業した年に中学時代の同窓会が開かれたのだ。そのメンバーには慎吾も混じっていた。
当時、慎吾は何度か物言いたげに莉彩に近付いてきたものの、莉彩の方が慎吾を避けるように逃げ回って、結局、会の途中で早々と帰ってしまったという経緯があった。
今から思えば、あまりにも大人げないふるまいだったと反省はしている。でも、直接顔を合わせても、お互いに気まずい想いをするだけではないのか―という想いは今でも変わらない。
しかし、慎吾はメールで〝大切な話がある〟と言っている。そこまで言う彼に対して逃げ続けるのは卑怯すぎるように思えてならなかった。
振り返ってみるに、この十年間、莉彩は慎吾に対して一度としてちゃんと向き合おうとしたことがあったろうか? 十年前に別れを告げた日、実は終わったと思い込んでいたのは莉彩の方だけで、彼にとっては終わっていなかったのかもしれない。
だとすれば、これ以上、逃げ続けてはならない。真正面から慎吾と向き合い、ちゃんとその想いを、気持ちを受け止めなくては。そのときこそ、二人の十年間に、―あまりにも幼かった恋とも呼べない恋のエピローグを打つことができるのだ。
また、それが莉彩に彼が向けてくれた真摯な想いに対してのせめてもの礼儀というものだろう。
莉彩が慎吾の指定した花屋に着いたその時、慎吾は既に来ていた。
そういえば、デートするときもいつも先に来ているのは和泉君の方だったっけと、莉彩は〝昔〟を懐かしさとほろ苦さの入り混じった気持ちで思い出す。
でも、たった一度だけ、慎吾がデートに遅れたことがあった。その日に限って慎吾が待ち合わせ場所に現れず、莉彩は待ち合わせの橋のたもとからY駅の方へとさびれた商店街を引き返していった。
そして、あの事件が起こったのだ。莉彩を奇しき縁(えにし)で結ばれた恋人徳宗とめぐり逢わせることになったあの出来事。
いけないと、莉彩は緩く首を振る。ともすれば、あの男のことを考え、思い出してしまう自分を叱る。
これから慎吾に逢おうというのに、あの男(ひと)のことを考えてどうするというのか。あの男とは所詮、結ばれないさだめだとは判っているけれど、この恋に殉じて生きてゆく覚悟なら、慎吾との訣別もまた、避けては通れないことなのだ。
〝ミルフィーユ〟と半透明の曇りガラスにピンクのスプレーで吹きつけられたドアを押す。どう見ても外見も店の名前も花屋には見えないそこは、カフェとフラワーショップを兼ねた店だ。いつも店の前をよく通りかかることはあっても、実際に中に入るのはこれが初めてである。
花屋のスペースには狭い室内にそれこそ季節の花々が溢れ、香気に思わずむせ返りそうになる。店内に脚を踏み入れた途端、莉彩の視線がある一カ所へと引き寄せられた。薄紫の可憐な小花が身を寄せ合うように群れ固まって咲くその花はまさしくリラの花だ。
四月の今、北海道はリラの花が満開になる。莉彩の通った女子大近くにも〝リラの小道〟と呼ばれる並木道があった。
あの男が見てみたいと言ったリラの花、自分たちを引き合わせてくれるきっかけとなったリラの花を象った簪。
あの不思議なリラの花の簪に導かれ、莉彩は五百六十年の時空を越え、あの男に出逢った。莉彩にとって、リラの花はけして忘れ得ぬ花、忘れ得ぬひとにつながる想い出だ。
作品名:約束~リラの花の咲く頃に~再会編Ⅰ 作家名:東 めぐみ