ビル街の月
金縛りから解かれたような感覚。
振り返って見もせず、一目散に脱げ出そうとした時、背後から声を掛けられた。
「もしかして遠藤くんじゃないか? 僕だよ、とがり、戸苅長一郎だよ。」
その名前には覚えがあった。
小学校から中学校と同じ学校に通った男だ。
同じクラスになった事もある。
成績は良かったが内向的で、ゲームおたくだという噂も有った筈だ。社交的でいつも仲間とつるんでいた俺とは友達でも何でもなかったが、金を巻き上げた事くらいは有ったかも知れない。
しかし俺の記憶が確かなら、戸苅は人間だったはずだ。
如何に最近のその手の技術が発達していたとしても、着ぐるみなど着ていてはあんな動きが出来るはずは無い。
訝しげな俺の表情を察したのか戸狩と名乗る虎はやけに流暢な言葉で話し始めた……。
「偶《タマタマ》狂疾ニ因ッテ殊類ト成ル……。山月記だ。高校の国語の教科書に出ていただろ? 僕もね、狂ってしまったんだよ」
それは到底信じられない物語だった。
ゲームクリエーターに成りたかった戸狩は大学を卒業後、有名な大手のゲーム開発会社に入った。
学生時代から同人ソフトなどでそこそこのモノを作っていた戸狩であるが、会社という組織に組み込まれてしまってからは思うように仕事が出来なくなった。
又、同僚たちからも何となく疎んじられ、いつしか家に引きこもり、そして数ヶ月経った後、自分の中の何かが弾け飛んだのだという。
或る晩、窓から表へ飛び出し、夜の闇を駆けて行くうちに虎の姿に変じてしまったのだと言った。
都会では小動物を捕らえるのもままならず、自然と人を殺して食っているらしい。
今日はまだ時間が早かったが、人気も無いはずの所に気配を感じて寝ぐらから出てきた。