漢字一文字の旅 二巻 第一章より
十一の四 【鹿】
【鹿】、動物の「しか」を横から見た象形文字だとか。
そう言われれば、そのようにも見えてくるから不思議だ。
奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く【鹿】の 声きく時ぞ 秋は悲しき
そんな【鹿】の鳴き声は穏やかで、哀愁が漂う。
そして、【鹿】が鳴くことを「鹿鳴」(ろくめい)と言う。
明治十六年(1883年)、鹿鳴館が落成した。
その思いを外務卿の井上馨は宣言した。
「国境の為に限られざるの交誼(こうぎ)友情を結ばしむる場となさんとする」と。
ここから鹿鳴館時代が始まった。
毎夜、外国人賓客を招き舞踏会が催された。
そして当然ながらそこには華が咲いた。
鹿鳴館の華と呼ばれた大山捨松(おおやま すてまつ)、戸田極子(とだきわこ)、そして陸奥 亮子(むつ りょうこ)だ。
いずれも美貌の貴婦人たちだった。
その一人の大山捨松は新島八重より十五年遅く会津若松で生まれた。
幼い時は「さき」と呼ばれていた。
さきが十一歳の時、津田うめを含む少女たちと共に、米国へ留学した。
その旅立つ時、横浜港まで見送った母が「娘を一度捨てた、だが帰国を待つ(松)」とし、「捨松」と改名させたそうな。
十一年間米国に滞在し、勉学に励み、また西洋文化を吸収し帰国した。
その後、参議陸軍卿の伯爵・大山巌と結婚する。
披露宴は鹿鳴館で開催され、一千人の人たちが招待され、それは盛大なものだったとか。
美貌の大山捨末はドイツ語、フランス語、英語に堪能であり、鹿鳴館の華と言われるようになった。
こんな華やかな鹿鳴館、本当のところ外国人にはどのように映っていたのだろうか?
フランスの海軍仕官、ピエール・ロティは後の小説に描写した。
鹿鳴館は温泉町の娯楽場、振る舞いは笑劇、まったく猿真似だ、とまことに辛辣。
しかし、どうもその通りのようで、まんざら嘘ではなかったようだ。
明治二〇年四月二〇日、時の権力者・伊藤博文は鹿鳴館の横滑りで、首相官邸でファンシー・ボール、つまり仮装舞踏会を開催した。
これに四〇〇名が参加し、牛若丸、白拍子、七福神などと着飾って……、とどのつまりが乱痴気騒ぎに。
男たちは酔っ払って服を脱ぎ、女たちは悲鳴を上げて逃げまどう始末。
結果、「某所の宴会」での、「某」と「某候の妻」が……との噂が流れた。
すなわち、好色の伊藤博文が岩倉具視の次女・鹿鳴館の華の戸田極子夫人を庭の茂みに誘い込み、強姦しようとした、と。
さらに、極子は裸足で逃げ、なんとか無事だった、と言い訳がましく。
こんなスキャンダルを新聞が報じた。
このような目に余る風潮を批判し、「女学雑誌」は社説で、鹿鳴館は「姦淫の空気」と断じた。
いやはや【鹿】という漢字、本来は
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 【鹿】ぞ鳴くなる
と趣のある漢字だが、……、それ以来、全国の【鹿】が怒ってるとか。
作品名:漢字一文字の旅 二巻 第一章より 作家名:鮎風 遊