天つみ空に・其の二
それに、この色黒の醜い娘にも何か妙な引っかかりを憶えてならない。甚佐の亡八としての長年培ってきた勘がしきりに何かを告げているような、そんな気がした。だが、現実として、この眼の前の娘が磨けば光る玉だとも、将来お職を張る花魁になれるとも到底思えない。そんなことは、たとえお天道さまが西から昇ったって、無理なことだろう。
それでも、なお、甚佐の楼主としての勘が何かを告げている。そう、甚佐は確かに、この炭団のような小娘に何かを感じているのだ。
甚佐は腹の内で唸った。亡き先代―父親の跡を継いで花乃屋の楼主となって以来、二十年間、こんなことは、いまだかつてなかったことだ。
「そちらの娘は、お前さんにとって、どういう拘わりがあるんだえ?」
もう一度、顎をしゃくると、今度は真吉は淀みなく応えた。
「―妹だ」
「良いだろう、その娘も置いてやろう」
甚佐は無造作に頷いて見せたが―、心の内ではこの炭団娘が真吉の妹ではないことなど、先から承知である。花魁でさえ思わず縋りつきたくなるような美男と炭団のような娘が兄と妹だというのは到底信じがたい茶番のように思えた。この二人はまるで似ていない。
まあ、良い。甚佐は考えた。この炭団娘に感じるものの正体が何なのかは、おいおいに判るというものだ。真吉という男は腕っ節も強く、使えそうだ。とりあえず、この二人をここに置いてやれば、応えは自ずから見えてくるはずだ。しばらくは、この兄妹だという二人組の茶番に付き合ってやっても良い。
「せいぜい励んでくれ。無駄飯を食わす余裕は、うちにはないんでな。単なる居候だと判れば、娘ともども、すぐにここから出ていって貰う」
甚佐はそのひと言を残すと、すっと席を立った。後は振り返りもせず、真吉とお逸の存在を忘れてしまったかのようにさえ見えた。
―怖い人。
お逸は真吉と甚佐という花乃屋の楼主とのやりとりを固唾を呑んで見守っていた。甚佐のあの油断ならぬ眼に見つめられただけで、何もかも見透かされているのではないかという不安に怯えてしまう。
出合茶屋を出る間際、お逸は真吉の勧めで、膚を黒く染めた。真吉がどこからか調達してきた炭を細かく砕き、水に混ぜて薄くして膚に塗りたくった。更に、炭の塊で眉をわざと濃く太く描いた。念には念を入れ、顔や首筋といった外から見える部分だけでなく、夜着を脱いで裸になり、身体にも塗った。その後、真吉が古着屋で買ってきた地味な着物に着替えたのだ。
そうしておけば、どこから見ても、山だしの田舎娘にしか見えない。鏡に映った自分の顔を、お逸は見知らぬ他人のように見つめた。
だが、醜い山娘に見えることは、お逸にとっては少しも苦にはならなかった。こうして仮の姿を装えば、真吉の言うとおり、少なくとも吉原で人眼に立つこともないからだ。こんなに醜い小娘に、よもや廓の楼主とて眼を付けはしないだろう。この姿でいる限り、お逸は無事であり、真吉と共にいられる。そう思えば、辛いどころか嬉しいほどだった。
甚佐のあまりの鋭い視線に、お逸は一瞬、わざと醜く見せていることが見抜かれているのかと怖くなった。しかし、それは杞憂にすぎなかったようで、甚佐は、直にお逸への関心をあっさりと失ったようだ。やはり、真吉の言うとおりにして良かったと、つくづく思う。甚佐が座を立ち、漸く安堵したお逸に、真吉がそっと目配せする。お逸の不安を取り除いてやろうとするかのように、うっすらと笑みさえ浮かべた。この男の傍にいられるなら、たとえ、どんなことでも耐えてみせよう。
お逸は真吉にそっと微笑み返しながら、決意も新たに思うのだった。甚佐と入れ替わるように、先刻の男が姿を現した。例の、花乃屋の若い衆の首領格とおぼしき男だ。
「兄さん、あんたはこっちだ。悪ィが、妹の方は女中務めをして貰う。ここの旦那があんたの妹は下女くらいしかさせることがないっていうんでね。あんたには俺を助(す)けて、用心棒をして貰うことになる。新入りだが、腕っ節の強さを見込まれて、いきなり副頭領格の待遇だとよ。マ、せいぜい気張りな。あっ、俺の名前は浅吉(せんきち)」
浅吉という男は、見かけによらず、根は悪くはないようだ。気さくに自己紹介すると、肩をすくめた。
「あっと、それからこれだけは守って欲しいんだが、廓内の恋愛沙汰はご法度だってことだけは憶えておいてくんな。うちの見世にもきれいどころは上は花魁から下は廻し女郎まで大勢いるが、商売物に手を付けるのだけは止めてくれ。まっ、もっとも、俺らには花魁なんざア、所詮高嶺の花、手の届くようなもんじゃねえからな。それと、幾ら惚れた女郎ができたとしても、脚抜けだけは止めた方が良い。そんな大それたことをしでかしたら、兄さんの可愛い女が泣きを見ることになるだけだ。脚抜けをした女郎は俺なんぞでも到底、見ちゃいられねえ酷い折檻を受けることになる。女が可愛いと思やア、尚更、止めた方が良い」
浅吉は一気にまくしたてると、顎をしゃくった。
「じゃ、兄さんは俺と一緒に来てくれ。下女とはいえ、ここは女を売り買いする廓だ。男と女の暮らす部屋は階が違うし、かなり厳しく隔てられてるのさ。兄さん、先に俺は女郎に手を出すなと言ったが、それは何も女郎に限ったことじゃねえ。下女相手の恋愛は表向き禁じられてるわけじゃあねえが、うちの旦那はあまり良い顔はしない。風紀が乱れると言いなさるのさ。マ、男と女が睦み合うのが当たり前のこの廓で、風紀も何もあったもんじゃねえとは思うが、一応、けじめだけはつけてえと仰せなんだ。―というわけで、くれぐれも同じ見世の中の女に手を付けるのだけは止めてくれよ。女が抱きたけりゃア、どこか別の見世に行くと良い」
浅吉は自分が喋りたいだけ喋ると、真吉の腕を引いた。真吉が立ち上がる。
「じゃあな。お前も頑張れよ」
真吉は、いかにも兄が妹にするように優しく言い、お逸の髪を大きな手で撫でた。
―同じ見世の内にいれば、また逢える。とにかく今は我慢するしかない。
真吉の眼は、そう語っていた。
―真吉さんッ。
お逸は思わず叫んで追いかけたくなる衝動に懸命に耐えた。真吉が浅吉と部屋を出て行った後、お逸はその場にくずおれた。
また、一人ぼっちになってしまった。そうではない、真吉はまた逢えると暗にお逸に告げていたではないか、そう自らに言い聞かせようとしても、心細さは募るばかりで、ともすれば涙が溢れそうになる。廓という全く知らぬ場所に来た不安感が余計に淋しさをいや増す。お逸が涙をぬぐった時、頭上から嗄れた声が降ってきた。
「全く、今日日の若い娘は、なってないねえ。たかだか兄貴と離れただけで、めそめそするなんざァ、考えられないよ。お姫さまや大店のお嬢さまじゃあるまいし。さ、いつまでも泣いてないで、さっさと私についておいで。すぐに仕事をして貰うよ。これから色々と憶えて貰うことがあるからね」
涙の滲んだ眼で見上げると、腰の曲がった老婆が不機嫌そうな顔で仁王立ちになって、お逸を睨みつけている。
「まっ、こりゃア、旦那の言いなすったことは間違いない。本当に、炭団のような醜い娘だわ」
老婆が呆れたように言い、お逸をねめつけた。
「さっさとおし。この役立たず」