天つみ空に・其の二
真吉は次々に飛びかかってくる男をあるときは手刀で叩き伏せ、あるときは蹴り上げている。自分は殆ど攻めず、攻撃を器用にひょいひょい交わしている様は、真吉がわざと若い衆たちをからかって遊んでいるようにすら、見えた。鮮やかなほどの闘いぶりであった。
しばらく後。真吉が流石に荒い息を吐きながら、男に向かって言った。
「これで良いか? 一応、皆急所は外しておいたが、中には骨の一本や二本は折れている者がいるかもしれん。後でよく見てやってくれ」
真吉の回りには、大の字に伸びた用心棒たちが丸太ん棒のように転がっている。
「こいつは愕いたな」
しばらくは声もなかった男が大仰に肩をすくめた。
「うちの若い衆は皆、揃ってなかなかの手練れなんだが、そいつらをあっさりとのしてやるとは、お前、一体、何者なんだ? どう見ても、堅気の男にしか見えねえが、それは世を忍ぶ仮の姿ってやつか?」
真吉は男の問いには応えず、低い声で言った。
「約束だ、楼主に取り次いで貰おうか」
それでも、男が黙りを決め込んでいると、真吉の眼がスウと細められた。刹那、真吉の上背のある身体から怖ろしいほどの殺気が放たれる。まるで、研ぎ澄まされた刃物のような鋭さを全身にまとわりつかせている。
初めて見る真吉の姿に、お逸もまた愕きのあまり、声もない。
「それとも、あんたも俺と勝負するか? 俺はそうしても一向に構わねえぜ」
真吉が凄みのある口調で言うと、男は乾いた笑いを洩らした。
「冗談だろう。こんな稼業をしていたって、俺だって生命は惜しい。女房と生まれたばかりのガキがいるんでね」
「それなら話は早い」
真吉は頷き、男は首をひねりがら、真吉とお逸を廓の中に導き入れた。
二人が案内されたのは、入り口を入ってすぐの小さな部屋であった。どうやら、一階にある楼主の仕事部屋のようなものらしい。
「ふうむ。お前さんがうちの若い者をこてんぱんにしたという男かい。見た目はそんな強力には見えないが、随分とまた、うちの若い者を可愛がってくれたというじゃないか」
楼主は花乃屋甚佐(じんざ)と名乗った。年は四十半ば、楼主になってはや二十年になるという。
小男だが、細い眼に宿る光は鋭い。女郎屋の主は俗に世間では〝亡八(ぼうはち)〟と呼ばれる。それは、女を商売道具として売り買いする稼業、いわゆる遊廓の経営は、人が本来持つ八つの徳を忘れるというところから由来している。それほどに情け容赦のない冷血漢でなければ、楼主など務まらないということなのだ。
しかし、実際に女郎屋の主人が皆、一様に血も涙もない男ばかりかといえば、当然ながら、そうではない。遊廓によって、女郎の扱いはまちまちといったところだ。が、どのように温厚な楼主であったとしても、抱えている女郎を商いの道具としてしか見ていないのは、どこの見世でも同じことだろう。この花乃屋の楼主甚佐もけして酷い主人ではないが、遊女の扱いに対しては厳しかった。
「別に。俺はただ、楼主どのに逢わせて貰いたいと頼んだだけだ。そうしたら、ここの兄さんが若い衆との勝負に勝てば、楼主どのに逢わせてくれると言った。だから、勝負をした、それだけのことだ」
真吉は甚佐を相手にいささかも怯む風もなく、淡々と言う。甚佐は腕を組んだ恰好で、唸った。
「ホウ、これでも儂は泣く子も黙る甚佐と云われて、この吉原(なか)でも少しは顔と名が知れてる。その儂を相手にしても、少しも臆さぬとは、お前、なかなか肝っ玉の太え野郎だな。ここに来るまでは何をしていた?」
その問いかけに、真吉は口の端を歪めた。
「それを名乗れるほどなら、こんなところにわざわざ来やしねえさ」
「つまり、脛に疵持つ身だということか」
甚佐もまたニヤリと笑う。
「それを言うなら、ここ(吉原)に住んでる連中は皆、似たり寄ったり、他人のことはとやかく言えねえんじないのか」
真吉は事もなげに断じてから、じいっと甚佐を見据えた。
「それで、どうする。あんたは俺を雇うのか、雇わねえのか。俺の腕は先刻、ご披露したとおりだ。雇ってくれるというなら、あんたの役には立ってみせるぜ」
真吉の不敵な物言いに甚佐は怒りもせず、声を立てて豪快に笑った。
「ますます面白え。儂の忠実な犬になるというか」
「どうとでも。それは、あんたの好きなように考えてくれ。俺は、俺たち二人をここに置いてくれるなら、細かいことにはこだわらない」
真吉のしまいの言葉に、楼主の表情が初めて動いた。真吉の傍には、垢抜けない娘が眼を伏せて座っている。楼主の抜け目のない視線が二人の上を忙しなく往復し、その眼がお逸の前で止まった。
娘は色黒で、その膚はまるで炭団(たどん)(炭の粉をふのりで固めた燃料)のようだ。よくよく見れば、眼鼻立ちはそう悪くはないようだが、ずっとうつむき加減で、しかとは判じ得ない。だが、ちらと一瞥した限りでは、眉は女にしてはいささか濃すぎるし、唇は青ざめて、血の気もない。
おまけに、年齢のせいもあるかもしれないが、身体つきは貧弱で、女らしい豊満さは全くない。この歳頃であれば、廓にいれば、もう一、二年もすれば、突き出し(水揚げ)をしてもおかしくはない歳だというのに。甚佐は女郎屋の主として、長年、多くの女たちを見てきた。女を見る眼―ただし、商売道具としてだが―は確かだと自負していた。
最初は垢抜けない田舎娘が廓の水に浸かり、磨き抜かれて、女衒に連れられて来たときとは別人のような眼も覚めるような美人になることもある。しかし、この色黒の炭団のような娘には、甚佐の眼がねに叶うところは何一つなかった。むろん、この小娘の隣の男はこの娘を売るとは少しも言ってはいないのだが、つい亡八の長年の習性で、若い娘を見れば、そのような眼―この娘は将来、売れっ妓に、お職を張る花魁になれるかどうかといった眼で見てしまうのだ。
また、甚佐に言わせれば、将来売れっ妓になれるかどうかというのは、何も器量の良し悪しだけで決まるわけではない。器量は並でも、何かキラリと光るもの、例えば打てば響く対応ができるとか、心根が優しく一緒にいて安らげるとか、男の心を捉えるものを持つ女が客には好まれる傾向がある。
お職を張る花魁ともなれば、それなりの気概と誇りも必要だし、つんと取り澄ましているのも風格のうちと許されもするが、並の女郎であれば、逆に少しくらい器量が良くても、権高であったり情のない可愛げのない女は敬遠され、お茶を挽くことになる。
駄目だ、この娘は全く使い物にはならない。幾ら磨いても、この炭団のような膚が雪のように白く光り輝くことはないだろう。それに、どう見ても、この炭団娘に才知のきらめきがあるとも、気の利く対応ができるとも思えない。要するに、不器量で凡庸な役立たずの娘なのだ。
甚佐は口には出さなかったけれど、内心ではそんなことを考えていた。しばし、値踏みをするように見つめ。
甚佐はお逸当人にではなく、隣の真吉に向かって訊ねた。
「そちらは?」
その刹那、それまで何も動じることのなかった男―真吉の整った面にわずかに動揺が走ったように見えたのは、気のせいであったろうか。