天つみ空に・其の二
その言葉は、お逸にとって何より嬉しいものだった。伊勢屋の庭は低い生け垣に囲まれている。表の方に生け垣が途切れた場所が一カ所だけあり、そこに小さな柴折り戸がついていた。そこからは裏路地に出られるようになっている。
真吉はお逸の手を引いて、その柴折り戸から容易く裏路地に出た。表通りとは違い、人ひとりがやっと通れるほどの狭い道である。昼間とてなお人通りもなく、ましてや夜半ともなれば、犬の仔一匹見当たらない。
満月がただ白々とひとすじの道を照らしているだけであった。
「さあ、行きましょう」
二人は顔を見合わせ、走り出す。深い夜の中を駆け抜けていった。
―ひさかたの天つみ空に照る月の失せむ日にこそわが恋止まぬ。
今は、大好きなあの歌が、お逸を励ましてくれるように思えた。お逸は男の手を握る手に力を込めた。大きくて、無骨な手。この手がこれから先は、お逸のゆく先を示してくれる道しるべとなり、ゆく先を照らす希望となるだろう。
お逸は真吉の手をギュッと握りしめる。傍らの真吉がちらりとお逸を見て、力を込めてその手を握り返してきた。まるで苛酷な運命が二人を引き離すのを怖れるかのように、二人は固く手を繋いで走る。
《其の四》
その翌朝のことになる。真吉とお逸は思いもかけぬ場所にいた。真吉が考えた末に選んだのは新吉原であった。不夜城と謳われる江戸でも随一の規模を誇る幕府公認の一大遊廓である。
ここは男と遊女がひとときのかりそめの夢を仮寝の床に結ぶ場所だ。ここでの恋も閨で交わされる甘い睦言もすべては夢、戯れの恋にすぎない。一夜が明ければ、夢は覚め、恋もうたかたのごとく潰える。
だが、夢は儚いからこそ、美しい。吉原では、客も遊女もそれが夢と判って、ひとときの夢に身を委ね、甘い夢に酔いしれるのだ。
真吉とお逸は伊勢屋を飛び出した後、一旦は随明寺門前にある出合茶屋に身を潜めた。
艶めかしい紅絹の夜具がいかにも淫靡な雰囲気を漂わせている部屋ではあったが、とにかく身を隠すには、ここしかないと判断したのだ。真吉は疲れ切っているお逸を床に休ませ、自分は壁にもたれて仮眠を取った。
初め、お逸はなかなか眠れなかった。身体は泥のように疲れているはずなのに、何故か意識は冴えていて、眠れなかった。こうして真吉と改めて二人だけになってみると、真吉もまた男だということを意識してしまった。
考えてみれば、お逸は伊勢屋を出るときから、薄い夜着一枚の姿であった。出合茶屋という男と女が逢い引きを繰り返す特殊な場所もあいまって、我が身が夜着一枚だけの姿であることを殊更意識することになる。伊勢屋を出るまでは、清五郎から一刻も早く逃れたい一心で、そこまで考えるゆとりがなかった。
真吉が信用できないわけではなかったけれど、清五郎に乱暴されかけた経緯を思えば、お逸がそのような心境になったのも無理はなかったろう。
それでも、いつしか、うとうとと浅い眠りにいざなわれていった。夜明け前、二人は朝霧に紛れるようにして、出合茶屋を出た。一面に垂れ込めた乳白色の霧が都合良く二人の姿をすっぽりと覆い隠してくれた。
そして、夜が漸く明け初(そ)めたばかりの頃、真吉はお逸の手を引いて吉原の唯一の入り口、大門をくぐったのである。真吉は思い切って廓に身を潜めることに決めたのだ。ひと粒の砂を人眼から隠しおおせるには、まずそれを砂の海―即ち砂浜に紛れ込ませることだ。似た者ばかりの中に紛れ込んでしまえば、なかなか眼を付けられず、人眼に立つこともない。その理屈を利用したのである。
吉原には、真吉やお逸のような理由(わけ)ありの流れ者はごまんといる。他人に言いたくはない、詮索されたくない過去を持つ者たちが集まっている。ここであれば、いかに伊勢屋清五郎であれ、おいそれと二人を見つけることはできないだろうし、また清五郎がよもや吉原に二人が逃げ込むとは考えもしないだろう。
真吉は念には念を入れた。大見世では人眼に立ちすぎると考え、敢えて半籬(はんまがき)―中規模どころの見世を選んだ。真吉は〝花乃屋〟という見世の前に立ち、表にたむろっている若い衆にとにかく楼主に逢わせて欲しいと頼んだ。若い衆というのは、簡単にいえば廓の用心棒、妓夫である。用心棒だけでなく、客引きから花魁の使い走り、雑用と何でもこなした。時には、脚抜けした女郎を捕まえ、折檻をすることもある。
脚抜けというのは脱走で、これは遊女にとっては禁忌であった。脱走しても大抵は逃げおおせることは叶わず、追っ手に捕らえられ、酷い折檻の挙げ句、死んでしまうのが関の山、仮に生命を長らえても、羅生門河岸と呼ばれる最下級の遊女ばかりがいる安見世へと落とされるのが決まりである。
むろん、いきなり現れた真吉を若い衆はいかにも胡散臭げに眺め、その頼みはにべもなく突っぱねられた。真吉はそれでも懲りず、何度でも頭を下げ続ける。しまいには若い衆が怒り出す始末になった。
「兄さん、何度言ったら、判るんでえ。ここは、堅気のお店者が来るところじゃねえんだよ。あんたのような優男なら、女郎は歓んで床を共にしたがるかもしれねえが、それはあくまでも客としてのことさ。この廓じゃア、切った張ったは日常茶飯事、どう贔屓目に見たって、兄さんに廓の用心棒が務まるとは思えねえ。悪いことは言わねえから、他を当たりな」
それでも眉間に縦皺を寄せて諭す若い男は年の頃は、真吉とさほどに変わらないだろう。なかなかの男ぶりではあるが、やはり全身から荒んだ雰囲気を発散させているのは堅気の人間には見えない。
「生憎と、幾ら断られても、俺もここを動く気はねえ」
真吉が抑揚のない声で応えると、男はチッと舌打ちした。
「しょうがねえな。折角、人が親切に忠告してやってんのによ。あんたがその気なら、良い。口で優しく教えてやっても言うことがきけねえというのなら、腕づくでもお帰り頂くまでだ」
「それでは、一つ訊ねる。もし、俺がこいつらに勝てば、楼主に逢わせて貰えるか?」
真吉が無表情に言うと、男はぞんざいに頷いた。真吉は、自分と男を眺めている他の若い衆をちらりと一瞥する。
「オウ、良いだろう」
男が眼顔で合図すると、それまで遠巻きに眺めていた数人の男たちがわらわらと迫ってくる。
「口が達者なだけの、優男が!」
一人が飛びかかったのを初め、次々に男たちが真吉向かって飛びかかった。
傍らのお逸は小さな悲鳴を上げた。
「お前はこっちで見てな。気の毒だが、直にあの男は半殺しの目に遭うぜ」
真吉と交渉していた男がお逸を引っ張って脇に寄らせた。この男はこの花乃屋の若い衆の中では親分格らしい。自分からけしかけておきながら、高みの見物ときている。両腕を懐手にし、にやにやしながら成り行きを眺めている。どうせ真吉がすぐにやられると思っているのが、その表情からもありありと読み取れた。
だが、しばらくして、男の顔に〝おや〟という表情が浮かんだ。次いで、烈しい驚愕が走り、にやついた笑いは消えた。食い入るように真吉と仲間の乱闘を眺めている。