天つみ空に・其の二
けれど、父が突如として亡くなったあの時、既にお逸は一度はすべてのものを失った。店もこれまで大店の娘として何不自由なく過ごしてきた暮らしも。ならば、ここを出たところで、失うものは何もない。
それに、このままではいれば、清五郎のものになった時、お逸は真吉を永遠に失うことになってしまう。それだけは嫌だ。たとえ何を失ったとしても、この男だけは失いたくない。何故、これほど、真吉に惹かれるのかは判らない。整った容貌だけではない何かが、確かにこの男にはある。
この手を取っても良いのだろうか。お逸はもう一度、顔を上げ、確かめるように真吉の眼を見た。
真吉のまなざしは、どこまでも静かで真摯だ。お逸は小さく息を吸い込み、手を差し出す。その手を、真吉がしっかりと握った。
この瞬間、二人は二度とは戻れぬ修羅の橋を渡ったのだ。もう、後戻りはできない。死という宿命が自分たちを分かつまで、この手を放さない―と、お逸はこの時、自らに固く誓った。
その時。後ろに人の気配を感じた。かすかな脚音に、真吉が弾かれたように顔を上げ、お逸を見た。流石に、顔色が濃くなっている。
脚音に振り向くと、無限の闇を背にして、おみねが立っていた。お逸は硬直し、思わず真吉を縋るように見上げる。しかし、おみねの取った行動は予期せぬものであった。
「行って」
短いそのひと言に、この女の真意を見抜こうとするかのように見つめる。
「おみね―」
こんなときなのに、おみねは淡く微笑した。
「良いから、さっさと行って下さい。お内儀さん、私はお内儀さんが大嫌いでした。きれいで可愛くて、誰からも愛されて優しくされる。私が何を考えているかも知らずに、優しくしてくれましたよね。愚かしいほど他人を疑うことを知らないで、素直な女(ひと)。でもね、そういうのをどう呼ぶか教えてあげましょうか」
おみねは嘲笑うように口の端を引き上げる。
「お内儀さんみたいな人を馬鹿っていうんですよ。美人で、馬鹿みたいにお人好しで。もう、知ってるんでしょう? 私が旦那さまに真吉さんとお内儀さんができてるって、随明寺で逢い引きしてたって告げ口したんですよ」
「お前―って奴は」
真吉が顔色を変え、拳を握りしめる。その手をお逸はそっと押さえた。その二人のやりとりを見たおみねが小さく肩をすくめる。
「真吉さん、私はこれでもあなたを好きだったのよ。あなただけは他の皆と違って私を馬鹿にしたり、辛く当たったりしなかったから。別に片想いでも良かったの、ただ真吉さんの顔を遠くから見ていられるだけで良かった。それでも、お内儀さんは、私のひそかな愉しみまで奪ったわ」
おみねは、つとお逸を見据える。憎しみに燃える眼が射貫くようにお逸に向けられていた。もし視線だけで人を殺すことができれば、間違いなく、その時、お逸は死んでいたろう。そう思わせるほどに、烈しいまなざしであった。父の優しさに包まれて育ったお逸には、そのような露骨な悪意を向けられたことがない。訳もなく他人に烈しい憎悪を向けられることが、こんなにも辛いことだとは思わなかった。
「でも、良いわよね。真吉さんは、あなたに譲ってあげる。その代わりに、私は伊勢屋の旦那さまとこの店のご新造という立場を頂くわ。真吉さんとお内儀さんが惚れ合っていると判った時、私は決めたの。それなら丁度良い、旦那さまに事の次第を話して、旦那さまの信用を得た上で、その気持ちを私に向けさせようとね」
おみねが歌うように言う。先刻とは異なり、その口調はどこか愉しげで、うっとりとした表情は夢見るようでもあった。
「真吉さんと私が惚れ合っている?」
それは、またしても思いもかけぬ言葉であった。お逸が真吉に惚れていることは、もう自分でも自覚している。だが、肝心の真吉の気持ちをまだ、お逸は確かめ得ていない。
思わず呟いたお逸を、おみねが馬鹿にしたように嗤った。
「あなたもつくづく、おめでたい女ね。お内儀さん。随明寺でのあなたたち二人を見てれば、あんたたちが惚れ合っているのは三つの子どもでも判ることよ。それに、今だって、時々、視線を絡ませ合ってときのあなたたち。自分では気付いてないんでしょうけど、傍から見たら、火が付きそうなほどの熱い視線だってこと、全然判ってないんじゃない?」
お逸はもう一度肩をすくめ、呆れたような顔で真吉とお逸を交互に見た。
「怖ろしい女だな」
真吉の呟きを、おみねは聞き逃さなかった。
「これくらいしたたかじゃなきゃ、生きてはゆけないのよ。器量も頭も良くない、うすろのって馬鹿にされる女は、これくらい頭を働かせなきゃあ、這い上がることはできないのよ。でも、これだけは憶えておいて。私はいつか必ず、私を馬鹿にした奴らの上に立って見せる。そのためには、まず伊勢屋の旦那さまの心を掴むわ。お内儀さん、構わないでしょ。あなたは旦那さまより真吉さんを選んだんだもの、私が旦那さまを奪って見せたからって、構わないわよね」
〝ね?〟と、おみねは小首を傾げるような少女めいた仕草で、お逸を見つめた。そして、おみねはふいに笑い出す。何がおかしいのか、さも愉しくてならないといった様子でころころと笑う。おみねの乾いた笑い声が、夜の闇に不気味に溶けてゆく。
お逸は茫然として、笑い続けるおみねを見つめているしかなかった。静謐な表の顔と、ひとたび狂えば、どこまでも酷薄になれる裏の顔、二面性を持つ清五郎と同じ―、この女はもしかしたら、清五郎と同じ類の生きものなのかもしれない。存外にこの二人なら似合いかもしれないだろう。
その時、突如として、近くで騒がしい人声が入り乱れた。それは、次第に近付いてくる。
どうやら、お逸を探している連中が表の庭にまでやって来ているようだ。人声の中には番頭の喜助の声も混じっている。咄嗟に顔を見合わせた二人に、おみねが叫ぶ。
「さ、行きなさいよ。ここで捕まったら、あんたたちは、おしまいよ」
その声に背を押されるように、真吉がお逸の手を強く引いた。
「行こう。もう迷っている暇はない」
お逸は真吉の眼を見て、深く頷いた。もう、迷わない。自分はこの男にどこまでも付いてゆく。ふと頭上を振り仰いだお逸の眼に、煌々と輝く満月が見えた。空は雲一つなく冴え渡り、墨を塗り込めたような夜空に白銀に光る月。今のお逸の心はまさに、この空のように澄み渡っている。
―ひさかたの天つみ空に照る月の失せむ日にこそわが恋止まぬ。
あの万葉集の中の恋歌がごく自然に脳裡に浮かぶ。
「お内儀さんの身は、たとえ何があっても、これから先ずっと、俺が守ります」
あらゆるものが闇に覆われる中で、真吉の瞳もまた色を濃くしていた。その眼があまりに真摯で、お逸は彼の表情に胸を打たれた。
この男となら、どこまででもゆける。この男となら、たとえ地獄に堕ちても良い。
「どこまででも付いていきます。地獄の底まででも、真吉さんが行くというのなら、私は付いてゆきますから、連れていって下さい」
お逸が覚悟を秘めた眼で見上げる。刹那、二人の視線が切なく交わる。
「ええ、何があっても、俺はあなたを離しはしません。ただし、死を選ぶのは最後の最後ということにしましょう。それまでは、生きて生き抜くんです、―二人で」