天つみ空に・其の二
「伊勢屋の奉公人は皆、大番頭さんはむろん、下は年端のゆかぬ丁稚まで皆が知っていることですよ。ですが、事が伊勢屋の体面にも拘わることだけに、誰もが口をぬぐって知らん顔をしているだけのことです。何しろ、一度タガが外れたら、手の付けられようがない。確かに商いにかけては並々ならぬ才覚をお持ちですし、駆け引きもできる方ではあります。だが、それは旦那さまのお心が平静に保たれているときのこと。一つ間違えば、旦那さまは別人のようにお変わりになられます。我々、傍にお仕えする者としては生きた心地もしません。始終、旦那さまの顔色ばかり窺っていなければなりませんから。以前、旦那さまの逆鱗に触れた丁稚が足蹴にされ、打ち所が悪くて、亡くなったことさえあるほどです」
「―」
お逸は、最早、何も言葉がなかった。真吉の話によれば、奉公に上がったばかりの幼い丁稚に読み書きを教えていたときのことだったという。通常、そのような商いのいろはを教え込むのは大番頭か番頭当たりの役割だが、伊勢屋では代々丁稚を仕込むのは当主自らと決まっているという。
慣例に倣い、清五郎も丁稚に読み書きから算盤までを教えていたのだが、その新入りは物憶えが悪く、何を教えても呑み込みが思わしくない。一つ憶えれば、今度は以前に憶えたことを忘れるといった案配で、いっかな手習いが進まない。ある日、業を煮やした清五郎がその丁稚を滅多蹴りにするという事件が起こった。
丁稚は蹴られた拍子に昏倒、その後頭部を机が直撃した。すぐに掛かり付けの医者が呼ばれたが、丁稚は即死に近い状態であった。大番頭の佐兵衛は事が世間に洩れるのを怖れ、丁稚の両親には多額の金を香典として届け、他言は無用と更に上乗せした口止め料を渡した。桶職人をしていた父親は、息子の亡骸を見て絶句し、母親は冷たくなった骸(むくろ)を抱きしめて号泣した。佐兵衛が二人に渡したのは、裏店暮らしの桶職人がゆうに二、三年は暮らせるだけの金であった。当時、亡くなった丁稚は八つになったばかりであったという。
「―信じられない」
お逸は嘆息した。お逸の父仁左衛門は確かに、商人としては失格だったのかもしれない。一応やり手とは云われていても、結局は手に負えぬほどの負債を抱えて、肥前屋の商売は事実上、たちゆかなくなっていたのだから。
それでも、お逸は父が声を荒げて奉公人を叱っているのを見たことがない。入ったばかりの丁稚には事ある毎に優しい励ましの言葉をかけ、時には寄合の帰りに買ってきたと丁稚たちを集めて飴を与えたりしていた。
そんな仁左衛門を、奉公人の誰もが心から慕っていたのだ。商人としては失敗したとしても、そんな父をお逸は改めて誇りに思った。
「お内儀さん」
真吉がつとお逸を見た。
「今は、そんな話をしている場合ではありません。どうしますか?」
お逸は真吉の言葉の意味を計りかね、眼を見開く。真吉が真顔で言った。
「お内儀さんは、これから先、どうしたいと思われているのですか。このままこのお店にいて、旦那さまの奥さまとして生きてゆくだけの覚悟はおありなのですか」
改めて問われ、お逸は烈しくかぶりを振る。
「私はいやです、あんな人の思いどおりになんかなるのはいや! でも―」
お逸の眼に再び涙が溢れた。どうしたら良いのか。このままでは、お逸は連れ戻され、清五郎のものにならなければならなくなってしまう。そんなのは嫌だ。あんな男に指一本触れられたくない。そうなるくらいなら、死んだ方がマシだ。
あのまま逃げ出さなければ、今頃、自分はどうなっていたかと想像しただけで、おぞましさと恐怖に身体が震える。真吉はしばらく震えるお逸を見つめていた。その手が躊躇いがちに伸び、やがて、お逸の身体はすっぽりと真吉の温もりに包まれた。
「逃げましょう」
耳許で告げられ、お逸は眼を見開いた。
「でも、そんなことはできない。私と真吉さんが一緒にいなくなったら、皆が私たちの間を疑うわ」
それでなくとも、清五郎は、お逸と真吉の仲を勘繰っていた。―というよりは、あからさまに二人が深間になっているものと決めつけているようだった。確かにお逸は真吉に惚れている。だが、現実には、まだ二人の間には何もない。互いの気持ちさえ確かめ合ったわけではないのだ。
「それでは、お内儀さんはこのまま旦那さまのものになるというのですか」
深い瞳が真っすぐに見下ろしている。
お逸は真吉の視線を受け止めきれなくて、眼を伏せた。
「それは―、いやだわ」
ゆっくりと眼を開くと、口ごもりながらも、はっきりと応える。
「なら、逃げましょう。このままでは、お内儀さんは遅かれ早かれ、旦那さまの意のままにならねばならなくなりますよ。迷っている時間はありません。二つに一つ、どちらかを選ぶだけのことです」
平坦な声だった。しかし、不思議と深みがあり、相手の心の奥底まで滲み入るような響きがある。この男は声さえも人を魅了するようだ。
主人の妻を連れて、逃げる。それは表向きからいえば、駆け落ちだ。良人のある身で他の男と手に手を取って逃げれば、それは即ち不義密通と見なされる。公儀はこれを固く禁じ、万が一、露見した場合は男女共に姦通罪として厳罰に処せられ、晒された上、獄門という酷い末路が待ち受けている。それほどに大胆なことをしようとしているというのに、真吉は不思議なほど落ち着いていた。口調にも表情にもいささかの乱れもない。
彼女は眼を見張った。彼の鋭い指摘に愕き、表情を消す。少しうつむき―顔を上げたときにはニコッと口の端をつり上げて、冴え冴えと涙を残して輝く瞳で真吉を見据えた。
「判ったわ、私、逃げます。真吉さんと一緒に行くわ」
二つに一つ、どちらかを選ぶ―、先ほどの真吉の言葉を心の中で繰り返す。仮に清五郎の裏の顔を知る前のお逸だったら、大いに戸惑ったに違いない。清五郎への気持ちは異性のそれではなかった。いつまで経っても、清五郎を良人として受け容れることは無理だった。
だが、優しい清五郎をずっと拒み通すのは、お逸にとっても辛いことだったろう。幸か不幸か、清五郎はお逸の前でその仮面をあっさりと脱ぎ捨て、激すれば狂人と化す空怖ろしい本性を表した。最早、清五郎がどんな残忍な男なのか知った今、お逸に躊躇う必要はない。真吉の差し出した手を取ることができる。
ただ、気がかりは、一つ。己れの身勝手に真吉を巻き込んでしまうことだ。このまま伊勢屋に勤めていれば、いずれ真吉は番頭にも出世できる男だ。それをあたら、道連れにすれば、商人としての真吉の将来を閉ざすことになってしまう。
だが。このまま伊勢屋にいれば、真吉の言うように、いつか遠からず清五郎と褥を共にしなければならなくなる。そんなのは嫌だった。
―私はこの男(ひと)と生きてゆきたい。
お逸は眼の前の真吉を見つめた。若々しい端整な面立ちは鼻筋がすっきりと通っており、眼許がわずかに切れ上がった涼しげな美男だ。半月前、町外れで二人組の侍に絡まれているのを助けられて以来、何故か真吉のことが忘れられなかった。これからどのような道が待ち受けているのかは判らない。