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天つみ空に・其の二

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 清五郎本人は笑ったつもりだろうが、口の端をいかにも皮肉げに引き上げて冷笑する様は、お逸には悪鬼のように歪んだものに見えた。この欲望にぎらつかせた眼をした、ただ自分を思いどおりにすることしか考えていない男、その男があの優しかった清五郎と同じ男だとは考えられない。清五郎がお逸を抱き上げたまま、歩き出す。奥の寝所へと続く襖を無造作に開けると、お逸の身体は褥に放られた。
「あ―」
 お逸はあまりの恐怖に、気が変になりそうだった。慌てて身体を起こしかけたところ、覆い被さってきた清五郎に再び褥に押し倒される。
「いやーっ」
 お逸は泣きながら、いやいやをするように首を振った。どうして、こんなことになるのか。
―おとっつぁん、どうして、私を置いて一人で逝っちまったの? 
 お逸は父に問いかける。父さえ死ぬことがなければ、お逸はこんな卑劣な男の手に落ちることもなかったのに。夢中で拳を振り回している中に、それが清五郎の顎に当たったらしい。ツと、呻いて清五郎がお逸からわずかに身を離した。
 その一瞬をお逸は逃さなかった。渾身の力で清五郎の身体を押しのけると、狩人から逃れる兎のように素早く男から離れた。
「こいつめ」
 清五郎が口汚く罵り、お逸を血走った眼で追おうとする。お逸は素早く寝所の障子戸を開け放ち、庭に飛び降りた。素足であることも頓着せず、闇の中に走り込む。
「お逸、お逸ッ」
 腹立たしげな呼び声がしばらく続いていた。お逸はその間、咄嗟に紛れ込んだ低木の茂みの中で息を潜めていた。低木が重なり合ったその場所は丁度隠れるには恰好であった。呼び声はなおも続いていたが、やがて止んだ。舌打ちの音と共に、障子戸を荒々しく閉める音が続く。次いで、清五郎が番頭の喜助を呼ぶ声が癇性に響いた。
 お逸が知る清五郎はいつも穏やかで、落ち着いていた。その大らかさで人を包み込むような寛容で度量の大きい男だと思っていたのだが、実は、こんな愕くべき素顔があったのだ。
 お逸がこれまで見ていたのは、裏の顔ではなく表の顔の方だったのだろう。人間、誰しも二面性を持っているとは思うけれど、まさに清五郎の場合は別人格、もしくは全く別の男ではないかと思ってしまうほどの変わり様だ。恐らくは、長年親友として付き合っていた父ですら、清五郎のこのような裏の顔―残忍で計算高く、己れの欲しい物を手に入れるためには手段を選ばない容赦なさを持つとは知らなかったに違いない。
 怖ろしい男だと、お逸は今更ながらに身体の震えを止められなかった。ほどなく、喜助のおろおろした声が部屋内から聞こえてきた。清五郎の父の代から奉公しているという大番頭佐兵衛は妻子持ちで、近くの家から通ってきているが、主の清五郎とほぼ同年齢の喜助はいまだに独り身で、伊勢屋に住み込みで奉公している。真面目だけが取り柄といった感じの、気の弱い男で、いつも大番頭に小言ばかり喰らっている。
 喜助に清五郎が何事か命じている声が洩れ聞こえてきた。茂みからは細部までは聞き取れないけれど、辛うじて、しまいの〝何があっても探し出して、私の前に連れてこい〟―、それだけは辛うじて聞き取れた。大変なことになってしまった。お逸は唇を噛みしめた。刹那、下唇にかすかな痛みが走る。先刻、清五郎に咬まれたせいだろう。お逸は無意識の中に夜着の袖で唇をごしごしと力を込めてぬぐった。あんな男に触れられたと思っただけで、穢らわしいと思わずにはいられない。
 と、俄に屋敷の中が騒がしくなった。寝静まっていた使用人が叩き起こされたのだ。次々に灯りが点り、廊下を人声が行き交う。
「旦那さまは、お内儀さんが庭の方へ逃げたと言われたぞ」
 喜平の声が夜風に乗って、お逸の許まで聞こえてくる。お逸は蒼白な顔で立ち上がった。
 とにかく一刻も早く、ここから逃げなければならない。愚図愚図していては、捕まえられてしまう、そうなれば、有無をいわさず清五郎の許に引き立ててゆかれ、今度こそあの男の慰み物にされてしまうだろう。そんなのは真っ平ご免だった。借金をすべて肩代わりしてくれた―たとえその裏にどのような下心があるにせよ、そのこと自体には今でも感謝はしている。しかし、それと、お逸を金で買った妻だと広言してはばからず、あまつさえ、恩に着せ脅迫して欲しいままにしようとするのとは話の次元が違う。
 一生かかっても返済することができるのかどうかも判らない。それでも、お逸は清五郎に借りた金を返すつもりだった。
―私はお金で買われたんじゃない!
 清五郎に大声で怒鳴り声してやりたい。お逸は清五郎の卑劣な仕打ちに対して、強い憤りを憶えずにはいられなかった。伊勢屋の庭は家屋を取り囲むように造られており、ぐるりと続いて、歩いて一周できるようになっている。お逸は庭続きに表の方へと逃げた。
 その間にも、めまぐるしく思考を回転させる。多分、今はまだ表の方は人手があまりないはずだ。奥で騒ぎが起こったため、奉公人は奥の方―しかも普段なら使用人が立ち入ることのない当主と家族専用の棟に集まっているはず。
 狙うなら、その隙であった。今なら、まだ逃げ出す機会は十分にあるだろう。続きになった庭づたいに表の方までゆくと、前方にぼんやりと灯りが揺れるのが見えた。お逸は全身に緊張を漲らせた。何てことだろう。ここまで来て、おめおめと見つかってしまうとは。悔しさに歯がみした時、前方を照らす提灯の明かりがフッとかき消えた。
 愕きのあまり物も言えないでいるお逸に、黒い影が忍び寄る。思わず身を退くと、囁き声が耳許をかすめた。
「お内儀さん」
 この声は―。お逸は、安堵と嬉しさが同時に込み上げてきて、涙が溢れた。この声を、自分はどれだけ聞きたいと願ったことだろう。ひっそりとした薄い闇に、上背のある男の姿が浮かび上がる。月明かりに照らし出された真吉の貌は、どこまでも静謐だった。この漆黒の瞳に見つめられたいと、ずっと思っていた。焦がれて焦がれて、どうしようもないほどに。
「真吉さん」
 何か言おうとするお逸の唇を、伸びてきた真吉の手が覆った。真吉が眼顔でかぶりを振る。その眼は、〝何も言うな〟と告げている。
「表の方にお逃げになって、正解でした。こちらはまだめぼしい者はいません。旦那さまのお腹立ちが深く、喜助さんなどは、お内儀さんを探すよりは旦那さまを宥める方に必死ですよ」
 真吉が囁くように言った。よほど近くにいなければ、聞き逃してしまうような小さな声だ。誰かに勘づかれるのを警戒してのことだろう。お逸は真吉を見た。
「あの方は、旦那さまは、いつもこうなのですか? 私は旦那さまがこのような方だとは少しも知りませんでした」
 と、真吉が唇を笑みの形に引き上げる。それは、見ようによっては、どうしようもない主へのひそかな侮蔑とも取れた。
「怜悧で、およそ感情を露わにせず駆け引きのできる男。うちの旦那さまは世間ではそのように言われておりますが、現実は―」
 流石にそれから先は手代頭としては口にはできないのか、真吉は吐息を吐いた。
作品名:天つみ空に・其の二 作家名:東 めぐみ