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天つみ空に・其の二

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 清五郎が明るい声で言い、お逸をじいっと見た。
「はい」
 お逸は小さな声で応える。そんなお逸を見つめる清五郎の眼は冷え冷えとした光を宿し、凍てついている。
「それにしても、愕いた。お前がそんな女だったとは考えてもみなかったよ」
 思いもかけぬ言葉に、お逸は眼を見開く。清五郎の言葉は、あまりにも計り知れないものだった。
「お前は平気なのか? 情夫(いろ)と共に眺めた紅葉をこの私と眺めて、何も感じないというのか。私を裏切っておきながら、その愛らしい顔で平然と私を騙すのか」
「どういう意味でございますか!?」
 お逸は叫ぶように言った。
「私には、そのような憶えはありませんし、他の男の方と睦まじうしたりはしておりません」
 ひと息に断じると、清五郎が舌打ちを聞かせた。
「全っく、とんだ女(アマ)だ。それでは、有り体に言おう。昨日、お前は随明寺で何をしていた。大池のほとりで、私以外の男と懇ろになっていたのではないのか」
 その瞬間、お逸の身体中の血がサアッーと音を立てて引いていくようだった。顔色が変わったのを見た清五郎がしてやったりとばかりに口の端を引き上げる。
「やはり、図星のようだな。おみねの申していたことは真であったらしい」
 お逸は両手で口を覆った。
「そんな、まさか、おみねが」
 茫然として呟く。既にあの時刻は伊勢屋に戻っていたはずのおみねが実はまだ随明寺にいて、真吉と自分の様子を盗み見ていた。そのことも愕きではあったけれど、何より信じられなかったのは、心から信頼していた女中が清五郎に一部始終を密告したという事実であった。
 清五郎が荒んだ笑みを端整な面に刻んだ。 行灯の火影に浮かぶその顔はなまじ整っているだけに、陰惨というか凄惨に見える。
「お前は、私のものだ。私はお前の父親が残した多額の借金をすべて肩代わりしてやったんだぞ? その私をお前は裏切るというのか!」
 お逸は清五郎のあまりの凄まじい形相に怯えた。夢中で首を振る。
「私は、他人さまから後ろ指をさされるようなことは一切してはおりません。真吉さんとはただ、偶然随明寺で出逢っただけなのです。それに―、借金を肩代わりして下さったことについては、そのご恩は忘れてはおりません。お金は、たとえ一生かかっても、少しずつでも旦那さまにお返ししてゆくつもりでおります」
 だが、その科白はかえって清五郎の怒りに火を付けたようだ。清五郎が闇から響くような声で言った。
「ホウ、それはまた随分とできすぎた偶然だな」
 馬鹿にしたような口調だ。その態度や表情は、まるで端からお逸の言葉を信じてはおらぬといった風だ。清五郎がお逸を睨み据えた。
「この際だがら、はっきりと申しておくが、私はお前に金を返して貰おうとは考えていない。良いか、このことだけはよく心得ておけ。お前は私に金で買われたも同然の妻なのだ。ゆえに、お前が私に金を支払う必要は全くない。ただ、その代価として、お前は私のものにならなければならない、そういうことだ」
 烈しい眼、凄みのある声。どれもが、これまで見たこともない清五郎であった。
―金で買われたも同然の妻。
 そのひと言は、お逸の心に烈しい衝撃を与えた。
 それでは、清五郎は父への友情や優しさから、お逸を引き取ったわけではなかったのか。何のことはない、自分のゆく先は結局、遊廓に行くのと何ら変わりはなかったということだ。大勢の男の慰み物になることだけは逃れられたものの、つまりは、この男に金で買われ、良いようにされる運命であったということなのか。
「信じていたのに!」
 父のように、兄のように思い、その優しさにどれほど感謝していたか知れないのに。お逸が涙ながらに清五郎に訴えると、清五郎が鼻で嗤った。
「流石に親馬鹿などうしようもない父親に甘やかされて育った世間知らずの娘だな。甘いこと、この上ない。誰がちゃんとした利益も得もないのに、ただの親切心だけであれだけの借金の肩代わりなんぞするものか。お前という戦利品を得ることができるからこそ、私は金を出してやったのさ」
 あまりにも酷い科白に、お逸は言葉を失う。
「それゆえ、お前が私に金を返す必要はさらさらない。ただ、お前のなすべきことは、その身体で私を愉しませることだけだ」
「―!!」
 お逸の眼から大粒の涙が零れ落ちた。清五郎が嫌らしげな薄笑いを浮かべ、近付いてくる。すべてが信じられなかった。悪い夢を見ているのだと思いたかった。あの優しかった清五郎、父の一番の親友、理解者であった清五郎がこんな風に豹変するなんて。
 ふいに手首を掴まれ、強い力で引き寄せられた。逞しい男の力と、十五の娘の力では所詮比べものにはならない。清五郎の顔が近付いてくるのを烈しく首を振って拒みながらも、お逸の眼からは次々に涙の雫が溢れた。
「この分では、男は初めてだな。私は真吉ととっくにと思っていたんだが、良かった」
 満足そうな吐息が熱く濡れ、お逸の耳許をかすめる。背筋がゾクリとして、嫌悪感が湧き上がった。この男の言葉がまるで理解できない。清五郎にとって何が良かったのかも判らぬままに、お逸は悲鳴を上げた。
「誰か、助けて、お願い、誰か来て」
 いつまでも拒み続けるお逸に腹を立てたのか、清五郎の顔が一瞬重なったかと思うと、お逸は唇を奪われていた。強い痛みが唇に走る。清五郎に咬まれたのだと判るまでに、刻を要した。痛みを持つ唇がじんと痺れる。
「何をするの、止めて下さい」
 自分としては毅然として抗議したつもりだったのに、実際には哀願するような情けない口調になってしまう。
 清五郎は何も言わず、お逸の華奢な身体に回した手に力を込めた。顎を掴まれ、強引に唇を重ねられる。二度目の口づけは最初より更に容赦がない。息をもつかせぬほど唇を重ねられ、お逸は辛くて首を振った。そのわずかの隙を逃さず、男の舌がお逸の少しだけ開いた口に侵入する。ぬめっとした舌触りがたまらなく嫌で、お逸の身体中の膚が粟立った。
 狂おしく深い口づけは執拗に延々と続いた。漸く唇が離れると、清五郎はお逸の身体を軽々と抱え上げた。
「こんな夜に薄い夜着一枚で障子を開け放して庭を見ていたなんぞ、気違い沙汰だな。ほら、こんなに身体が冷えている。さあ、これから私がゆっくりと温めてやろう」
 お逸の顔を覗き込む清五郎の眼は昏く、欲情に薄く翳っている。
「お願いです、こんなことは止めて下さい。お願いだから」
 お逸が弱々しく懇願すると、清五郎は笑った。
「なに、怖がることはない。誰でも初めてのときは怖いものだ。良い子にしていれば、手荒な真似はしないと約束するし、可愛がってやる。すぐに良い気持ちにさせてやるさ」
 お逸には、今宵の清五郎の言葉はなかなか理解できないものが多かった。世間知らずで、およそ性的な知識は何もない少女にとっては、無理からぬことだ。
作品名:天つみ空に・其の二 作家名:東 めぐみ