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天つみ空に・其の二

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 父がかつて好んでいた恋の歌、あの歌は、多分、こんな切ない恋心を歌ったのだろう。今なら、お逸にもこの歌を詠んだ一人の女人の気持ちがよく判る。真吉へのこの恋心は誰にも止められない。もし、空に煌々と輝く月がこの世からなくなってしまえば、お逸の恋情も消えることがあるかもしれない。でも、現実に夜空に浮かぶ月がなくなるなんて、絶対にあり得ない。それと同じで、お逸の恋心が失われることもけしてないのだ。
 お逸が暗澹とした気持ちで宵闇に沈んだ庭を見ていると、襖越しにおみねの窺うような声が聞こえてきた。
「お内儀さん、夜も更けて参りましたが、何かご用はございませんか」
 お逸は現実に立ち返る。努めて明るい声音で返した。
「今夜はもう良いわ。ありがとう。夜も遅いから、おみねも早く寝んでね」
「かしこまりました。それでは、ごゆっくりとお寝み下さいませ」
 声と共に、脚音が廊下を遠ざかってゆく。お逸に与えられたのは、この居間と更に奥の続きのひと間である。奥の間にはおみねが敷いてくれた夜具があった。
「おやすみなさい」
 お逸は聞く人もいないのに、小さな声で言ってみる。一人になると哀しい気持ちが溢れてきて、眼に湧き上がった涙が零れそうになった。お逸は狼狽えて顔を上げ、それをこらえる。緩やかな夜風に髪を吹かれていると、心の中にまでその風が忍び込んできて、滲みるような気がする。
 霜月もそろそろ終わり近くになってきた。日中はまだまだ肌寒いというほどではないが、流石にこの時間になると冷える。
 お逸はそれでも障子戸を閉めようとせず、縁に座り、半渇きの髪に櫛を通した。父が買い与えてくれた蒔絵の櫛には白い兎と紅葉、桜の模様が描かれている。お逸のお気に入りの櫛だった。肥前屋を出るに当たり、身の回りの物は殆ど処分した。清五郎はそんな必要はないと言ってくれたのだが、財産を失った身が綺羅を纏う贅沢をすることはできない。
 お逸は信頼できる古参の番頭に頼み、着物や帯、簪と持っているすべてのものを古道具屋に売り、金に換えて貰った。そうして金に換えたとしても、さほどの額にもなりはしなかったけれど、お逸はそれらをすべて清五郎に渡した。
 そんなお逸がたった一つだけ売らずに取っておいたのが、父の形見となってしまったこの櫛なのだ。もっとも、伊勢屋に来てからというもの、清五郎が父に代わり、様々な贅を凝らした品々を整えてくれたゆえ、すべてを処分したとしても一向に不自由はなかった。
 清五郎は店に置いてある品の中でも殊に上等の布で、お逸の着物を仕立てさせ、簪、笄と美々しいものを取り揃えた。お逸にしてみれば、そんなにして貰うつもりも必要もないのに、清五郎は金に糸目はつけず、勝手にお逸の身の回りの品々を揃えてゆく。それに、清五郎の好みは万事につけ派手すぎて、お逸は正直好きにはなれなかった。
 夜陰に紅葉がひそやかに浮かび上がっている。墨を溶き流したような夜空に、丸い月が白々と浮かんでいる。明るい月明かりのせいで、紅葉の鮮やかな朱の色がここからでも窺い見ることができる。もちろん昼間の光の下で見るのには叶わないが、こうして月光に照らし出された紅葉も良い。紅い衣を纏った艶麗な女人のようだ。
 ふいに冷たい夜風が吹き込んできて、お逸は身を震わせた。それでも、戸を閉める気にはなれない。今となっては、紅葉をこうして眺めているときだけが、あの束の間の至福のひとときを偲ぶよすがであったからだ。
 そういえば、真吉と二人で紅葉を見たのはつい昨日の出来事なのに、もうあれから随分と刻が経ったような気がしてならない。逢っている瞬間は幸せで眼が眩みそうなのに、逢えない時間は気が遠くなるほどに長くて空しい。
 二人で大池のほとりに並んで、燃えるような紅葉を眺めたのだった。その後、真吉がお逸をそっと抱きしめて―。あのときはまだ、お逸は己れの恋心を自覚すらしていなかった。今度は、いつ逢えるのだろうか。同じ屋根の下にいながら、真吉の顔を見ることさえない。表まで行けば良いのかもしれないが、清五郎はお逸が表に出ることを嫌った。女は商売のことには一切口出しせず、奥に引っ込んでいれば良いというのが清五郎の持論らしい。
 それに、形だけのご新造では、主人の女房面してのこのこと店まで出てゆくことは、奉公人たちの手前もはばかられる。
 あの日の光景がまるで、今もそれを見ているかのように甦る。ひらひらと舞う紅葉が花びらのように、雪のように二人に降りかかっていた。
 もう一度、刻を戻せるなら。お逸の眼から溢れ出した涙が白い頬をつたう。
 と、背後の襖が音もなく開いた。お逸は突然のことに、愕いて身をすくませた。恐る恐る背後を振り返ると、夜の闇を纏うようにひっそりと清五郎が佇んでいた。
「少し邪魔をしても良いか」
 常ならぬ低い声に違和感を憶えたものの、頷かないわけにはゆかない。お逸は慌てて立ち上がった。清五郎はすべるように部屋に入り込んでくると、襖を後ろ手に閉めた。その視線がお逸の身体中を嘗め回すように動いている。お逸は居心地の悪さを憶え、ハッとした。今のお逸は薄手の夜着に解き流した洗い髪のままだ。薄い生地で仕立てた白い夜着は、身体の線を露わに見せているに違いない。
 お逸は狼狽えて手近にある着物を肩から羽織ろうとした。いつになく不躾にお逸を見ている清五郎の執拗な眼も何となく不気味だった。
「そのままで良い」
 だが、清五郎の手がぬっと伸びてきて、お逸の細い手首を掴んだ。お逸は咄嗟に身を固くして、怯えを滲ませた眼で清五郎を見上げた。だが、清五郎がすぐに掴んだ手を放したので、ホッとする。そんなお逸を清五郎が感情の窺えぬ瞳で見つめている。
「まさか、まだ起きているとは思わなかった」
 清五郎が唐突に言った。ならば、いっそのこと寝ているふりをしていれば良かった―と、お逸は思う。灯りを消して床に入っていれば、清五郎もそのまま自室に帰っていったただろうに。正直、こんな夜更けに清五郎と二人だけで―しかも薄い夜着一枚のしどけない姿でいるのには抵抗があった。
「ずっと庭を見ていたのか?」
 問われ、お逸は少し躊躇い、頷く。
「紅葉を見ていたのです」
 庭の紅葉が相変わらずひっそりと夜陰に沈んでいる。お逸は再び庭に茫漠とした視線を向けた。
「紅葉?」
 刹那、清五郎の眉がつり上がったことに、お逸は迂闊にも気付かなかった。わずかな沈黙が、お逸には押し潰されそうなほど気詰まりなものに思える。
 清五郎が突如、沈黙を破った。
「そういえば、昨日、随明寺に出かけたのだったな」
 念を押すように訊ねられ、お逸はまた頷く。
「はい、旦那さまが紅葉見物でもしてきたら良いとおっしゃって下さいましたので、おみねと二人で出かけて参りました」
「それで、どうだった? 紅葉はきれいだったか」
 重ねて問われる。お逸は視線を動かし、清五郎を見た。
「はい、それは、もう。赤児の手のひらのような愛らしい葉が燃えるように色づいていて、いつまで見ていても飽きるということがございませんでした」
「それでは、愉しいひとときを過ごせたようだね。そいつは良かった。私たちもまた明日にでも、紅葉狩りに出かけるとしよう」
作品名:天つみ空に・其の二 作家名:東 めぐみ