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天つみ空に・其の二

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おまけに、清五郎のことを〝父〟か〝兄〟のようだと言ったのだ、あの小娘は。
―伊勢屋さんが今は私のおとっつぁんやお兄さんのようだから、淋しくはありません。
 あの可愛らしい貌に笑みさえ浮かべて言い切ったのだ。全く、冗談じゃない。何も自分は一生、夫婦ごっこをするつもりでお逸を迎えたわけではない。むろん鬼畜じゃあるまいし、今すぐに手を付けようとまでは思わないが、一、二年その成長を待った後には名実共にお逸を女房にしようと考えているのだ。
 まあ、それもしばらく致し方なかろうと、清五郎はほろ苦く微笑した。お逸は何と言っても、まだまだ子ども、ねんねだ。着物の上から見ても、その肢体もまだ女として発達途上、未成熟といったところだろう。あと一、二年も待てば、その身体も成熟するだろうし、清五郎がお逸の身体を女体として成熟させてやっても良いのだ。むしろ、その方が男としてはたまらない悦楽を得られるに相違ない。
 そのためには、今は辛抱が必要だ。商売においても女においても、最大の利を得るには、辛抱と見極め時が肝要だと、この男はいやというほど知り尽くしている。
 清五郎が廊下を歩きながら暗い物想いに耽っていると、突如として声が聞こえた。
「旦那さま」
 清五郎は何者かとハッと身構える。
 ゆるりと視線を動かせば、廊下から見える庭先に、野暮ったい娘が立っていた。色黒の、どう贔屓目に見ても美人どころか、愛敬があるとも言えぬ顔に怯えたような表情を浮かべている。
 清五郎はしげしげと娘を見つめた。器量は良くはないが、身体付きはなかなか良い。清五郎は一瞬、この娘の豊満な身体に眼を奪われそうになる。着物の上からでも、そのふくよかな乳房や豊かな腰つきが見えるようで、帯を解き、着物を脱がせて、その一糸まとわぬ姿を見てみたいという欲求さえ憶えた。
「お前は―」
 見憶えのある顔だが、名前までは思い出せない。確か、お逸の身の回りの世話をしている娘ではなかったか。
「女中のおみねと申します」
 ああ、そうだった。この山娘は、おみねという名であったと漸く記憶の糸を手繰り寄せる。だが、その女中が一体、自分に直々に何用があるのかと、清五郎は眼を見開いた。本来なら、幾らお逸の側仕えとはいえ、おみねから清五郎に声をかけることさえ、はばかられることだ。しかし、清五郎はおみねの無礼にも嫌な顔をせず、穏やかに頷いた。
「ああ、そうだったね。確か、おみねという名だった」
 おみねは膝の前で両手を合わせて、しきりに揉んでいる。何か言いたいことがあるに相違ない。おみねがつと顔を上げ、清五郎を見た。
「実は、折り入ってお話がございます」
「話―?」
「はい、ご新造さんのことで、旦那さまのお耳に入れておいた方が良いと思うことがございまして、こうしてご無礼も顧みずまかり越しました」
 おみねという娘が反応を窺うような眼で、清五郎を見上げた。嫌な眼だ、小賢しいと、嫌悪がよぎるが、話がお逸のことだと言われると、邪険にはできない。まさか、店の奉公人の誰もから―幼い丁稚にまでうすのろだと馬鹿にされている愚鈍なはずの娘が、そこまで計算した上で清五郎に声をかけてきたとは、流石の清五郎も考えもしなかった。
「前置きは良いから、話したいことがあるのなら、さっさと話しなさい」
 清五郎が珍しく甲走った声を上げると、おみねがしたり顔でニヤリと笑った。
「それでは申し上げます、実は―」
 おみねはご丁寧にもわざとゆっくりと周囲を見回し、誰もいないのを確認してから、いっそう声を低めて勿体ぶった口調で話し出した。

 その四半刻ほど後。自室に戻った清五郎は憤懣やる方なしといった心持ちだった。あまりの怒りにに眼がくらみそうで、おみねという女中がいなくなった後、どこをどうやって部屋まで戻ったのかも憶えていない。
 ゆえに、すべてを密告した後、おみねがしてやったりといわんばかりの顔でうつむいていたのも気付かなかった。ざらざらした嫌な感じは、おみねの話を聞く以前より更に強くなっている。今、ここで大声を上げて暴れ回りたい気分だった。
 今日はこれから大切な取引先が訪れることになっている。こんな取り乱した状態で逢うわけにはゆかない。それまでに何とか己れを落ち着かせなくては。そう思う傍ら、怒りが沸々と湧いてくる。
 お逸の清五郎自身への気持ちに一抹の危惧を抱いてはいたものの、まさか悪い虫がこんなに早くに付くとは考えてもみなかった。
 可愛い初な外見には似合わぬ、奔放な娘だ。あんな虫も殺さぬ顔をして、男なぞ何も知らぬと言いたげなくせに、存外裏では色々な男を取っ替え引き替えしていた淫乱な売女、あばずれかもしれない。そんな女を大人しく手なずけるのも悪くはない。―ないが、お逸を女にするのは、絶対に自分でなければならない。清五郎には妙な思い込みがある。
―許さねえ。借金の肩代わりまでしてやった私を裏切ったあの女を到底、許してはおけない。
 清五郎の中で暗い怒りの焔がひときわ烈しく燃え上がった。

 お逸はその夜、部屋の縁側に座っていた。夕餉の後、風呂を使い、髪を洗った。お逸の艶やかな黒髪は緩くうねり、腰まで届いている。量が多いため、普段は女中のおみねに梳かして貰っているのだけれど、今夜だけは自分でするつもりであった。
 どういうわけか、気心の知れたおみねまでをも遠ざけて、一人になりたいと思ったのだ。日に三度の食事も、お逸はこの部屋でたった一人で食べる。たとえ形だけとはいえ夫婦でありながら、清五郎と共に食事を取ったことは一度としてないのだ。
 望めば何でも惜しげもなく与えられ、何もすることもなしに無為に過ぎてゆく日々。それで、本当に生きているのかと問いたくなるような、怠惰な、空虚な毎日。時間だけがただ、お逸の傍を駆け足で通り過ぎてゆく。
 このままで良いのか。こんな生き方を自分はしたかったのか。自分で自分に問いかけてみる。そんな時、一人の男の貌を眼裏に切なく甦らせる。―真吉だった。真吉の屈託ない笑顔が幾度も瞼に浮かび、その度に、心にパッと明るい花が咲いたような、花の蕾が膨らんでゆくようなほっこりした気持ちになれる。
 清五郎が嫌いというわけではない。お逸が物心つく前から知っている人だし、幼いお逸を抱き上げたり膝に乗せて一緒に遊んでくれた人だった。お逸の苦境を救ってくれた恩人として、心からの感謝を抱いているし、自分でできることなら、何なりと尽くすつもりだ。
 だが、清五郎への想いは、真吉に対するものとは全く違う。清五郎への想いが亡き父に対するものと似ているならば、真吉への想いは―、あの男を思い出しただけで、泣きたくなるほど胸が苦しくなり、そのくせ、ときめき昂ぶる心を抑えられない。このいまだかつて経験したことのない気持ちが何なのか、お逸も漸く自覚し始めていた。
 これは恋、というものではないのか。その昔、父が母と出逢ったときに感じたような、胸の高鳴り、母が父からの求愛を受け容れたときの気持ちと同じものではないのだろうか。

 ひさかたの
  天つみ空に照る月の
    失せむ日にこそわが恋止まぬ
作品名:天つみ空に・其の二 作家名:東 めぐみ