天つみ空に・其の一
お逸が頷いて画帳を差し出すと、清五郎はそれを受け取り、ぱらぱらとめくった。食い入るように見つめるそのまなざしは真剣そのものだ。
途中で、ふとその手が止まる。
「お逸ちゃん、これは仁左衛門さんだね?」
念を押すように問われ、お逸は後方から清五郎の手許を覗き込んだ。
「はい、確か一年前くらいだったと思います。おとっつぁんが一人で碁盤に向かっているところを描いたものですわ」
清五郎はなおもしばらく画帳をめくっていたが、やがて、畳むとお逸に返してよこした。
「仁左衛門さんは、お逸ちゃんを殊の外可愛がっていた。ずっと父一人子一人だったのだから、お逸ちゃんも淋しいだろう」
しんみりとした口調で言う清五郎に、お逸は微笑む。
「いいえ、今は伊勢屋さんが私のおとっつぁんかお兄さんのようだから、淋しくはありません。こんなに良くして頂いて、何とお礼を言ったら良いのか」
「―そうか、それなら良いんだが」
その瞬間、清五郎の整った面がわずかに翳ったのを、お逸は気付かなかった。
「折角描いているところを邪魔して悪かったね」
清五郎はひと言詫びると、立ち上がった。
襖が再び音を立てて閉まると、お逸はホウと息を吐いた。いつもなら清五郎と二人だけでいても、こんなに緊張することはないのに、今日はどうしたのだろう。殊に先刻、清五郎がお逸の手許を見ようと覗き込んだ時、清五郎の腕が触れた瞬間、いやだ、怖いと思ってしまった。
恩人の清五郎にそんなことを考えた自体、許されないことのように思える。全く、昨日から、自分はどうかしてしまったようだ。真吉のことを訳もなく考えて涙したり、清五郎をたとえ一瞬でも怖いと思ってしまうなんて。
「ひさかたの天つみ空に照る月の失せむ日にこそわが恋止まぬ―」
大好きな恋の歌をそっと呟いてみる。
お逸の眼からつうっとひと筋の涙が流れ落ちた。
庭の紅葉が風もないのに、はらはらと散り零れていた。
《其の参》
お逸の部屋を後にした清五郎は、何か浮かない気分だった。いつになく苛々として、その辺の物を手当たり次第ぶつけてやりたいような、そんな加虐的な気分だ。こうなると、自分でも、もう手が付けられなくなる。感情だけが暴走し、清五郎は自分を見失ってしまうのだ。自分は感情の抑制なら十分にできる人間だと思っていたのに、こんな風に自制ができなくなったのは、いつ頃からだろう。
まだ先代、つまり清五郎の父清治が生きていた頃は、ついぞこんなことはなかった。清五郎は見かけどおりの穏和な、常に取り乱すことのない男だった。それが、今ではこの体たらくだ。
清五郎が最初に感情を爆発させたのは、父が亡くなり、十八で店の身代を継いだ直後である。当時、娶ったばかりの女房と些細なことで喧嘩して、カッとなった清五郎が女房を殴った。それも一度だけでなく、何度も殴った。女房が怯えて頭を抱えて蹲って許しを乞うているにも拘わらず、なお拳を振り上げた。あの時、大番頭の佐兵衛が止めていなければ、清五郎は女房を殴り殺していたかもしれない。
結局、その最初の女房との夫婦仲はよそよそしく、女房が初子を流産し、亡くなるまで、心から打ち解け合えることはなかった。何かと実家の威勢をひけらかす、嫌な女だった。たいした女でもないくせに、気位だけは高く、年下の清五郎をいつも見下げた態度をとり続けていた。
以後、清五郎は度々、癇癪を起こすようになった。それも単に怒るのではなく、発作といっても良いほどの烈しい癇癪だった。もっとも、世間が知る清五郎は、昔と変わらず、冷静沈着、商いにひたすら打ち込む凄腕の商人であった。伊勢屋の奉公人以外に、その怖ろしい素顔を知る者はいない。
この苛ついた、ざらざらとした嫌な気分の因は判っている。清五郎の脳裡に、迎えたばかりの妻の貌が浮かぶ。いや、妻とは名ばかりで、実質的にはまだ夫婦ではない。かつて兄とも慕い尊敬した亡き親友の忘れ形見の少女だ。
清五郎は我が身がこれほど女々しく、甲斐性のない男だとは認めたくもなかったし、考えてみたこともなかった。しかし、この年若い娘を迎えてからの自分はどうだろう!
十五も年下の、娘と言っても良いような稚い少女の一挙手一投足にこれほど一喜一憂するとは。そう、認めたくないことだけれど、清五郎はお逸に惚れていた。むろん、最初にお逸に話したことは嘘ではない。たとえ女房として迎えても、褥を共にするつもりは一切なかったし、長年の友情に報いるため、ただ一人の娘のゆく末を気に掛けながら無念の死を遂げた友の代わりとして遺児の面倒を見るつもりでしたことだ。
ところが、お逸を実際に伊勢屋に迎え入れて、この無邪気な少女と共に暮らす中に、清五郎の心は微妙に変化し、次第に揺らいでいった。大店の一人娘として乳母日傘で育ったはずなのに、我が儘でもなく、控えめで気性も優しい。お逸が側仕えの女中おみねを何かにつけ庇っているのを知らぬ清五郎ではない。
また、この娘は気性が優しいだけでなく、たおやかな容姿をしている。今はまだ開きかけた蕾だが、いずれ数年も待てば大輪の艶やかな花を咲かせるだろう。
清五郎は、この少女を間近で見ている間に、どんどん惹きつけられていった。気が付けば、この少女の魅力に完全に囚われてしまっている。
だがと、清五郎は思う。果たして、我が心の中に、お逸を欲しいという下心が端からなかったかどうか。幾ら長年の友であるとはいえ、肥前屋仁左衛門の残した負債は、あまりにも巨額すぎた。仮にお逸という存在がなければ、身代を揺るがすほどの借金を無理してまで肩代わりしたかどうか。
お逸の叔父の縹屋基次郎―全く血の繋がった叔父とも思えぬほど、お逸に対して冷酷だ―などは、これくらいの金では伊勢屋の身代はビクともしないと思っているようだが、そんなことはない。要らぬ腹を勘繰られたくはないから、清五郎があくまでも平気な顔をしているだけだ。今回の肩代わりは、それほどに伊勢屋にとっては負担になった。
それでも、敢えて無理をしてでもすべての借金を肩代わりしたのは、どこかでお逸を手に入れたいと目論んでいたからではなかったろうか。肥前屋を訪れる度、美しく娘らしくなってゆくお逸を眩しく見つめていたのだ。
かつてお逸の母お駒は、江戸でも評判の佳人であった。お逸は、そのお駒に生き写しなのだ。お駒は十七という若さで、お逸を生んで亡くなった。お駒が仁左衛門に嫁いだのは十六の春であったが、当時、清五郎はまだ十四の少年にすぎなかった。それでも、仁左衛門に女房だと紹介された時、あまりの美しさに身体が震えたほどだったのを記憶している。そして、心では、これほどの美貌の女を得た仁左衛門を妬ましく思ったのは確かだ。
しかも、お駒は容姿だけではなく、心根も優しい女だった。そんなところも、お逸は母によく似ている。清五郎にとって、お駒は初恋の女だった。