天つみ空に・其の一
そのときのお逸は、我が身が男の腕に抱かれている自覚は全くなかった。我に返って頬を赤らめたのは、漸く泣き止んだ後、真吉に付き添われて伊勢屋に帰って、改めて自室で一人になったときのことである。
が、そのお逸もまさか、大池のほとりで真吉の腕に抱かれている場面を物陰からそっと窺い見ている者がいたとは考えもしなかった―。
お逸は途中ではぐれてしまったおみねを案じながら、真吉と共に伊勢屋に戻った。おみねは既に店に帰り着いており、大番頭や女中頭から大目玉を喰らっている最中であった。
「旦那さまが掌中の玉と大切になさっておられるお内儀さんに、万が一、もしものことがあったら、どうするつもりだったんだえ。お前だけじゃなくて、私たちまでもが旦那さまからきついお叱りを受けることになってしまうんだよ? 本当にお前はうすのろの気の利かない子だねえ。お内儀さんをそのまま随明寺に残して、ほっぽり出して一人でのこのこと帰ってくるなんて」
女中頭のおふみは血相を変えて怒鳴り散らしていた。おみねの常のことで、うなだれて何も言わず、ただ〝申し訳ございません〟と繰り返しているだけである。
おふみは事の次第を主清五郎には告げなかった。お逸を慈しんでいる清五郎に知れれば、女中頭の自分までもが監督不行届として
お逸はボウとしたまなざしを紅葉の枝先に向けていた。何の小鳥なのか、深緑色で羽根の方に少し、白が混じっている。黒いつぶらな瞳が愛らしい。お逸が見つめていると、小鳥も物言いたげにじいっと見つめ返してくる。しばらくは、お逸と小鳥だけの静かな刻がその場を包んでいた。
その時、背後の襖がガラリと音を立てて開いた。その音に愕いたのか、小鳥はバサバサと羽根を幾度かはためかせ、空へと舞い上がった。
「あっ」
お逸は哀しげな声を上げた。
「お逸ちゃん」
名を呼ばれて、お逸が潤んだ眼で振り返った。その瞳に露の雫が宿っているのを見、清五郎がハッとした表情になった。
「泣いていたのか?」
「鳥が―」
お逸は言いかけて、涙をぬぐった。
「小鳥があの紅葉の枝に止まっていたのです。緑色のきれいな鳥でした」
「ああ、私が来たので、愕いて逃げてしまったのだね」
清五郎が頷くと、お逸を気遣わしげに見た。「しかし、泣くほどのことではないだろうに」 お逸はつい今し方まで小鳥が止まっていた方を見ながら呟いた。
「小鳥が羨ましい。小鳥は羽根があって、自分の好きなところへどこにでも飛んでゆけるもの。私も今度生まれ変わるなら、小鳥になりたい」
「お逸ちゃん―」
清五郎に呼ばれて、お逸は我に返る。
「ご、ごめんなさい。私、失礼なことを申し上げました」
うつむくお逸に、清五郎は笑った。
「どうしたんだ? ここでの暮らしに何か不満でもあるのかい。何か欲しい物や足りない物があるのなら、遠慮なしに言ってごらん」「いいえ、本当に何から何まで良くして頂いて、私、心から感謝しています。不満なんてありません」
消え入るような声で応えると、清五郎が鷹揚に頷いた。
「それとも、おとっつぁんが恋しくなって、泣いていたのかな」
お逸は、それには応えなかった。愛らしい小鳥を見ながら思い出していたのは、父ではない。全く別の男であった。だが、それは、いかにしても口にできるものではない。
お逸が黙り込むと、清五郎は小さな溜息をついた。
「どれ」
立ち上がり、お逸のひろげていた画帳を傍らから覗き込む。清五郎がぐっと間近まで近付いてくる。その拍子に、清五郎の腕がお逸の髪をかすめ、肩に触れた。刹那、お逸はピクリと身を震わせ、清五郎から離れるように後ずさる。
清五郎がちらりとお逸を見た。
「もしかして、私はお逸ちゃんに嫌われているのかな」
お逸は首を振った。
「そんな、伊勢屋さんを嫌うだなんて」
清五郎はお逸を感情の読み取れぬ瞳で見つめていたが、ふっと笑った。
「まあ、良い」
そう言ってから、再び視線を画帳に戻す。
ひとときの静寂が流れた。
ふいに、清五郎がその静寂を破る。
「亡くなった仁左衛門さんの腕ははなかなかのものだったが、お逸ちゃんもたいしたものだね」
清五郎の言葉には感じ入ったような響きがある。けして、その場限りのおざなりの賞め言葉ではないことは判った。
お逸は慎重に言葉を選びながら応える。
「でも、おとっつぁんは伊勢屋さん―」
ここで、言い淀み、わずかな戸惑いを見せた後、慌てて続けた。
「いえ、旦那さまの絵は見事なものだと申しておりました」
清五郎の端正な面に苦笑が滲む。
「無理に旦那さまと呼ぶ必要はないんだよ」
清五郎もまた真吉には及ばないが、上背もある方だし、男ぶりも悪くはない。むしろ、顔立ちは整っているといえるだろう。伊勢屋ほどの大店の主人という立場、なおかつ、これだけの男ぶりなら、これまでにも何度も縁談はあったに相違ない。なのに、何故、これまで後添えを娶らなかったのかも疑問ではあった。
一説には、清五郎の最初の結婚はあまり上手くはゆかなかったらしい。最初の女房との縁組みは親同士がまだ当人たちが幼い頃に早々と決めてしまったらしいが、相手の女は清五郎より二つ年上であった。年上女房ゆえというわけでもなかろうが、この女房は権高で何かと実家のことを引き合いに出しては、清五郎を辟易させていたという。
一度、仲の良かった仁座右衛門がもう再婚はしないのかと問うたら、苦笑して
―もう女はこりごりだよ。あんな窮屈な想いをするだけなら、いっそのこと、このまま独身の方がよっぽとマシだ。
と、応えたと、これは父が笑いながら語っていたのを聞いたことがある。
お逸の父が最初の女房恋しさゆえに再婚しなかったのは、全く対照的な理由である。が、それは、お逸が詮索するべき話ではない。
お逸がそんな話をぼんやりと思い出していると、清五郎が続けた。
「それに、私など仁左衛門さんの脚許にも及ばない。仁左衛門さんは、その気になれば、絵師で食べてゆけるだけの腕と技量を持つお人だった」
「そうでしょうか。私にはよく判りませんけど」
正直に言うと、清五郎は愉快そうに声を上げて笑った。
「本当のことだよ。私は余計なおべっかは言わない。仁左衛門さんは本当に絵師になっても世間を渡ってゆける人だ。私がもし、それだけの才能を持っていれば、間違いなく今は、こんなところにはいなかったろうね」
「そう、なのですか」
お逸が愕いたように言うと、清五郎は笑いながら頷いた。
「私は商売が好きだ。親からゆずり受けたこの店の身代も大切だとは思っているが、仮に私に絵師になれるだけの技量があれば、とっくの昔に何もかも捨てて世間に飛び出していたろう」
どこから見ても、沈着で、商いにかけては怜悧だと評され、商売ひと筋に見える清五郎に、そのような情熱的というか、衝動的な面が潜んでいるとは信じられない。
お逸が眼を見開いていると、清五郎は照れたように笑った。
「どうも、年甲斐もなく、つまらないことを聞かせてしまったようだ。それよりも、この画帳を少し見せて貰っても構わないかな」
「はい」