天つみ空に・其の一
「先刻、私は大池を眺めるお内儀さんを遠くから拝見しておりました。何か、とてもお淋しそうなお顔をしていらっしゃった。―正直、私には旦那さまのお考えがよく判りません。旦那さまとお内儀さんは、あまりに歳が違いすぎます。ですが、それくらいの歳の差の夫婦は世間にはごまんといます。格別に珍しいわけではありません。ただ、私どもから見ましても、旦那さまとお内儀さんは夫婦というよりは、親子のようにお見受け致します。それならば、何故、旦那さまは最初からお内儀さんを奥さまとしてではなく、ご養女としてお迎えになられなかったのかと疑問に思ってしまうのは、多分、伊勢屋では私だけではないと存じます」
お逸はハッとした。真吉は、お逸の孤独を見抜いていたのだ。何不自由なく恵まれた日々の底にわだかまる、小さな疑念と言いしれぬ淋しさを。
確かに、そのとおりではあった。仮に清五郎がお逸を端から養女として引き取っていたならば、お逸はこれから先、惚れた男に嫁ぐことも可能だった。だが、仮に肉体的な交わりはなく褥を共にすることがなくとも、形式上、お逸は清五郎の妻である。そんなお逸には未来永劫、誰にも嫁ぐことは叶わない。
お逸に何不自由のない暮らしを与えておく傍ら、清五郎は〝妻〟という名目でお逸を縛ろうとしているようにすら思える。口には出さないけれど、真吉だけではなく、他の奉公人一同が似たような想いを抱いてるのだろう。清五郎とお逸がいまだに真の夫婦となっていないことは、伊勢屋に奉公する者であれば誰でも知っていることだ。
お逸は真吉の言葉には触れず、微笑んだ。
「先ほどのことですが、真吉さんが私を見ていたと言いましたね? 池を眺めている私が淋しそうに見えたと」
「はい、確かにそのように申しました」
真吉が眼をまたたく。
お逸は微笑を浮かべたまま、視線を再び池に投げた。
「あの時、私、父を思い出していたのです」
「お父上―、肥前屋の旦那さまでいらっしゃいますね」
「ええ。今になってみれば、私はつくづく子どもだったと思います。父の苦労も知らず、ただ甘えるだけの世間知らずな子ども。もっとも、大切な父を喪った今も、そう変わりはありませんね。父は商いにとても忙しくしていて、なかなか二人だけでゆっくりと話せる時間など、ありませんでした。父がいなくなってみて初めて、もっと話をしておけば良かった、訊いてみたいことがあったと気付きました。真吉さん、父は見かけによらず、万葉集が好きだったんですよ」
思いもかけぬことを言い出したお逸を、真吉は眼を見開いて見つめる。お逸は、ただ誰かに胸の内を―大好きだった父の想い出を聞いて欲しかった。清五郎とは一日中、殆ど喋る機会はない。それは、かつての父との暮らしと同様、すれ違いばかりであった。
お逸はもうここ久しく、誰かとこうやって心を開いて打ち解けて話したことなど、なかったような気がする。
「肥前屋の旦那さまが万葉集をお好きだったとは―、何か少し信じられない話でございますね」
父は穏やかな人柄ではあったが、なかなかいかつい顔つきの強面の男であった。一見したところ、商人というよりは地回りの親分といった風にも見えた。そんな父ではあったが、一人娘のお逸を前にすると、相好を崩した、親馬鹿な父親に変わった。
そんな父親が実は万葉集を愛好していたという逸話は、誰にも話したことはない。万葉集といえば、様々な歌があるが、父が殊に気に入っていたのは恋の歌であった。
「久方の天つみ空に照る月の 失せむ日にこそわが恋止まぬ」
お逸が呟くと、真吉が小首を傾げた。
「私は幼いときから先の旦那さまに読み書き算盤を教えて頂きましたから、一応読み書きはできますが―、生憎と学はございません。それは、何という意味の歌にございますか」
お逸は淡く微笑する。
「空に輝く月が消える日が来たら、この恋は終わるのでしょうか、でも、月の輝くことが終わらないように、貴方を想う心が止むことはないでしょう。―確か、そんなような意味合いだったと思います」
昼日中から若い男を相手に恋の歌を語っていても、不思議と照れとか恥ずかしさはなかった。ただ、父の想い出を誰かに聞いて貰いたい一心だった。
しばらく、真吉から声はなかった。
ただ、何かを一心に考えているような表情だった。
「もう一度、その歌をお聴かせ頂けませんか」
ややあっての言葉に、お逸は頷いた。
ひさかたの
天つみ空に
照る月の
失せむ日にこそ
わが恋止まぬ
「久方の天つみ空に照る月の失せむ日にこそ わが恋止まぬ」
繰り返す澄んだ声に、真吉が聞き入っている。
「この歌は父が母に求婚したときに、贈ったものだそうです。それを初めて聞いたときは、あまりに父らしくなくて、思わず笑ってしまったので、父が失礼な奴だと拗ねてしまって。ああ見えて、子どものような純真なところのある人でした」
母は小さな駄菓子屋の娘として生まれた。店の前を偶然通りかかった父が店番をしていた母を見初め、是非にと熱望し、所帯を持ったのである。この歌はその際、父が母に語り聞かせたものだ。
「本当に優しい父でした。どうして、父があそこまで追いつめられていたことに気付かなかったのか、今更ながらに悔やまれてなりません」
お逸の眼に涙が溢れた。ひとたび溢れ出た涙は止まらず、白い頬を濡らす。
「私は、父の苦しみを何も理解して上げられなかった。父があんな風に突然亡くなってしまったのも、私のせいなのかもしれません」
「そんなにご自分をお責めになられないで下さい」
真吉の言葉が心に滲みる。それでも、お逸は泣き止むことができなかった。堰を切ったように溢れ出す涙を抑えられない。
次の刹那、信じられないことが起こった。お逸は真吉にふわりと抱きしめられていたのだ。
「お内儀さんは何も悪くはありません。肥前屋の旦那さまのことは不幸なことでしたが、何も、お内儀さんのせいではないのです。それよりも、お亡くなりなすったお父上さまもお内儀さんがいつまでもそうやって哀しんでばかりおられたら、余計に浮かばれないのではございませんか。肥前屋の旦那さまもきっとお内儀さんのお幸せを願っていらっしゃることでしょう。ですから、もう、お泣きにならないで下さいまし」
見た目は線の細い優男に見える真吉ではあったが、こうして抱きしめられてみると、存外に逞しい腕だった。流石に通りすがりの侍二人を容易く交わし、のしただけはある。
「それに、お内儀さんがそんなに泣いていらっしゃると、私は、どうしてら良いか判らなくなって困ってしまいます」
お逸は、涙をぬぐいながら言った。
「そうよね、こんな風に泣かれたら、真吉さんだって、迷惑よね」
だから泣き止もう、これ以上、真吉を困らせたくないと思うのに、何故か涙が止まらない。むしろ、余計に泣きたくなってしまう。
「あー、いえ、そうじゃなくて。駄目だな。私は気の利いた科白一つも言えないから、余計にお内儀さんを泣かせてしまう」
真吉の声には狼狽が滲んでいる。
若い二人の上で紅く色づいた紅葉の枝が揺れている。雲に隠れていた太陽も再び姿を現し、秋の陽が穏やかに水面に降り注いでいた。