天つみ空に・其の一
絵馬堂の傍を通り過ぎ、更に奥へと進む。ほどなく浄徳大和尚を祀る奥ノ院に突き当たり、ここで脚を止め、再び賽銭を投げて合掌する。奥ノ院の隣には満々と水を湛えた大池。人工のものとは信じられぬほどに、深くて蒼い水を湛えた様は、神秘さすら漂わせる。
その汀に桜並木があり、桜並木が終わった先に紅葉の樹が数本植わっている。
丁度ここが境内の最奥部になる。ここに辿り着く間際、ふとしたことで、おみねにはぐれてしまった。確かに奥ノ院の前までは一緒だったのだ。そういえば、お逸が拝み終えた時、おみねはまだ眼を閉じて何事か熱心に祈っているようだった。それゆえ、先にゆくからとだけ小さな声で告げ、そっと傍を離れたのだが、おみねには声が届かなかったのかもしれない。
一瞬、奥ノ院まで戻ろうかとも考えたものの、紅葉狩りに来たことは判っている。紅葉の樹の下で待っていれば、おみねもすぐに追いついてくるだろうと思い直した。大池のほとりまで来た時、お逸の草履の鼻緒が切れてしまった。お逸は懐から手ぬぐいを取り出し、とりあえず歩けるようにだけは直しておいた。
お逸は眩しげに眼をまたたかせ、乱反射する池の面を眺めた。穏やかな陽差しを受けて、鏡面のように煌めく池の面に、無数の紅葉がはらはらと散り零れている。紅い紅葉は水面を朱(あけ)の色に染める。その光景はさながら、紅葉に飾られた一枚の輝く布であった。
紅葉は今が盛りで、葉も十分に残っている。艶やかに色づいた葉の影が水面に映じ、それもまた布を飾る模様のようにも見え、興趣を添えている。赤子の手のような葉が重なり合った向こうには、深い湖を思わせる秋の蒼空が見渡せた。やわらかな陽差しの中で、紅く染め上がった葉がかすかに揺れている。
お逸は、その穏やかで美しい眺めに見惚(みと)れ、溜息をついた。こうしていると、父を喪ったことも、伊勢屋に引き取られたこともすべてが現のこととも思えない。何か長い夢を見ている最中なのだとも思えてくる。
またしても父の笑顔が眼裏に甦り、お逸は溢れそうになった涙をこらえた。たとえ清五郎がどんなに良くしてくれても、お逸は、父が生きていたあの頃に帰りたかった。
―おとっつぁん、どうして、私を置いて一人でおっかさんのところに逝っちまったの? どうして、私を一人ぼっちにしてしまったの。
心の中で、亡き父に呼びかけてみる。
だが、応えてくれる声はない。
ふと空が翳り、お逸は現実に引き戻された。空は蒼く、雲らしい雲は見当たらないが、はるか彼方に刷毛で描いたようなひとすじの白雲がたなびいている。どうやら、陽はその雲に遮られているようであった。
この空模様では雨が降るとは考えられないけれど、用心はした方が良いだろう。それにしても、おみねは遅い。おみねは、江戸近在の小さな農村から出てきた娘だという。二親は借りた土地を細々と耕して暮らす百姓であった。伊勢屋に奉公に上がってまだ漸く一年というから、もしかしたら、広い寺内で迷ったのだろうか。だとしたら、このまま自分一人で帰ることも躊躇われた。
あれこれと思案を巡らせながら、流石に心細い想いになったときのことだ。地面に散り敷いた紅葉を踏みしめる足音が響いた。思わずビクリとして身を強ばらせた。
「あ―」
お逸の身体中から緊張が解け、安堵が一挙に押し寄せた。お逸の眼前にひっそりと佇むのは、手代頭の真吉であった。
「真吉さん?」
だが、真吉がどうして、こんな時刻にここにいるのか。ふと疑念を憶えた。清五郎は奉公人にとっても申し分ない主人ではあるが、その分、厳しい一面もある。たとえ手代頭だとて、まだ昼前だというのに、随明寺で紅葉見物など許しはしないだろう。本来ならば、真吉は当然、店にいるはずであった。
「お内儀さんこそ、どうなさいました。お供もお連れにならずに、お一人でこのような人気のない淋しい場所に」
真吉の方も当惑顔である。お逸は小さく首を振る。
「おみねと一緒に来たのは良いけれど、どうやら、途中ではぐれてしまったみたいなの」
「そいつは、いけませんね。全く、おみねの奴は、いつまで経っても、そそっかしくて困ります」
口調の割には、怒っている風もない。
お逸はしばらく躊躇った後、思い切って訊ねた。
「真吉さん、お店の方は良いのですか? 今はまだ昼前だし、忙しい時分なのでは?」
暗に、このような場所にいても良いのかと訊ねたのだが、真吉は屈託ない笑みを見せた。
「大丈夫です。きっと私が旦那さまにお叱りを受けるのをご心配して下さったんでしょうが、今日はちゃんと旦那さまのお許しを頂いております」
「そう、ですか」
お逸は、やや拍子抜けした。
「私の実家が実は、この近くにございまして。とは申しても、ふた親は既に亡く、私が生まれ育った長屋も数年前に取り壊されてしまいました。ですが、姉が嫁いだ先がやはり近くにございます。今日は旦那さまのお言いつけで、この界隈まで来る商用がございました。そのついでに、姉のところにも寄って良いからと、お許しを頂きました」
そんなお逸を、真吉は何か眩しげなものを見るかのように見ている。
「お内儀さんは、お優しいんですね」
ややあってポツリと落ちた真吉の呟きに、お逸はすぐに反応した。
「私が優しい?」
「ええ、私は手代頭という立場上、店の者にはいつも眼がゆき届くように気を配っております。おみねは、あのように―よく言えば、おっとりとして、まあ、その逆を言えば、いささか機転が利かなさすぎます。その分、真面目で純朴なところは良いと思ってはいますが、いつも他の女中たちばかりか、丁稚までがおみねを馬鹿にして、平然と用事を言いつけるのは、いかがなものかと」
「そうですね。私もその事については、いつかは旦那さまに申し上げて何とかしなければと考えています。おみねは良い娘です。私は、おみねが他の誰にもない良いところを持っていると信じていますが、他の人は誰もあの娘のその良い面を見ようとはしないのです」
お逸が思うがままに応えると、真吉は頷いた。
「私もそれは存じ上げておりました。お内儀さんはまだ失礼ながら、伊勢屋にお入りになられて日が浅うございます。しかしながら、いち早く、おみねの良いところを見抜かれ、何かにつけ、おみねを庇われていらっしゃいます。あの娘にとっては、お内儀さんのお優しさは何より心強い、万の味方を得た想いでしょう」
真吉は言い終えると、少し躊躇うそぶりを見せた後、控えめな口調で言った。
「おみねの話はともかくとして、お内儀さんは、もう新しいお暮らしには、お慣れになりましたか?」
「はい。旦那さまも皆さんもよくして下さいます。それゆえ、何の不自由もありませんし、ありがたいことだと思っています」
「それならば良いのですが」
真吉は何かを考えるような眼で空を見ていたかと思うと、続けた。
「一介の奉公人である私がこのようなことを申し上げるのは、いかがなことかとは思うのですが、お内儀さんは、お淋しいのではございませんか」
真吉は小さく息を吐き出す。