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天つみ空に・其の一

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 いつの日か、惚れた男と互いに愛し合い、結ばれる―、そんな娘らしい初々しい夢と願いは潰えたが、その代わりに何不自由のない生活と安らぎを手に入れたのだ。失ったものばかりを数えずに、得られたものの大切さを認識し、これからの日々を生きてゆくべきであった。もし、清五郎が借金を返してくれなければ、お逸は女衒に売られるところだった。遊廓に女郎として売られ、身体を売らなければならなくなるところだったのだ。
 まだ十五のお逸には、そういった男女の事に関する知識は殆どない。しかし、遊廓で生きる女の悲惨さは漠然とは理解していた。それを思えば、清五郎は本当にお逸にとっては救いの神といえた。
 そんなある日のことだった。肥前屋に来てから、既に十日余りが過ぎようとしていた日。
 お逸はお付きの女中おみねと共に江戸の町外れを歩いていた。おみねは十七になる。色黒の赤ら顔で、いかにも田舎から出てきたといった野暮ったさは拭えないが、その分、純朴で人が好い。あまり気が利くといったこともない代わりに、一度命じられたことは律儀に守り、従う。お逸はひとめ見たときから、この少々愚鈍にも見える娘を好きになった。
 機転も利かず、喋るのもゆっくりとしているので、他の女中仲間からは馬鹿にされているおみねであったが、お逸は、おみねを誰よりも信頼できると思っている。
 その日は琴の稽古の帰りであった。和泉橋町には実家にいた頃からずっと通っていた師匠の住まいがある。師匠は、さる武家のご後室で、お逸にとっては祖母に当たるほどの年齢の夫人であった。いつも品の良い紫の着物を着た、上品な老婦人である。一人息子がいるが、息子夫婦とは別に暮らしており、小さな屋敷に一人住まいであった。お逸は七歳のときから、ここに通っていた。
 帰りはいつも、この和泉橋を通るのが道順であった。和泉橋は小さな川に掛かる橋で、上手に町人(ちようにん)町、下手に閑静な武家屋敷町がひろがる。この小さな橋一つを境に、賑やかな商人の町と武家屋敷ばかりが建ち並ぶ町が存在する。町人町はその名のとおり、商家が軒を連ねる町人の町、和泉橋町と呼ばれる武家屋敷町は老中松平越中守さまのお屋敷を初め、高禄の直参旗本の屋敷が集まっている。
 お逸主従が和泉橋を渡りきったそのときである。武家屋敷町の方から続くひっそりとした小道を、二人連れの男がゆっくりと歩いてくるのがかいま見えた。二人とも侍ではあるようだが、どうにも高禄の武士とは見えず、身に纏う着物も粗末なものだ。年の頃は二十歳を幾つか出たくらいだろう。
 お逸は二人の侍の姿を認めると、すぐに道の脇に寄った。背後のおみねがもたもたとしているのを振り返り、眼顔で脇によけるように伝える。だが、少し遅かった。おみねが向こうから歩いてきた一人とぶつかってしまった。もっとも、ぶつかったとはいっても、肩がほんの少々軽く触れたといった程度のものだ。
 しかし、若い武士は眉間に皺を刻んだ。
「おい、そこの娘。たかだか町人風情が仮にも公方さまより直々に扶持を賜る御家人の我等にぶつかってくるとは、良い度胸よの」
 おみねの浅黒い顔が狼狽と羞恥に赤くなる。お逸は咄嗟に狼狽えるおみねの前に進み出ていた。後ろ手におみねを庇い、丁重に頭を下げる。
「お武家さま、ご無礼の段はどうかひらにご容赦下さいませ。この者は私の召し使う者なれば、お詫びは私がこの者に代わって申し上げます」
「ホウ」
 ぶつかったと因縁をつけてたきた男が眉をつり上げた。傍らの男とそれとなく目配せをし合う。前者は上背があり、どことなく眼付きに険のある嫌な感じのする男だ。後者は小柄で丸顔が愛敬があるといえばいえたけれど、細いつり上がった眼は何を考えているのか、小狡そうな光を宿している。要するに、あまり拘わりたくない類の男たちであった。
 御家人だと居丈高に名乗ったものの、恐らくは禄高も低い下級武士に相違ない。
「その身なり、物腰から見て、いずれ名のあるお店の娘と見える。どうだ、俺たちと共に来ぬか? ほんの一刻で良い、俺たちの相手をしてくれれば、そなたの従者だと申す女の無礼は許してやろう」
 背の高い男が傲岸な物言いで言う。
 お逸は、戸惑いながらも男二人を交互に見つめた。
「私が、お武家さま方とご一緒すればよろしいのですね」
「お内儀(かみ)さん! いけません」
 後ろのおみねが悲鳴のような声で叫んだ。
「何と、この歳でもう人妻か。それは、それは」
 背の高い男が愕いた表情でお逸をしげしげと見つめた。まるで値踏みするような不躾な眼だ。
「何も知らぬ初(うぶ)な顔をしているが、それでは、男と女のすることはすべて存じておるのだな」
 丸顔の男が舌なめずりするような、にやけた顔で言う。
 お逸は、二人の言葉の意味が判らず、眼を瞠った。
「お武家さま、ぶつかったのは、この私にございます。お内儀さんには何の関わりなきことですゆえ、どうか、この場はお見逃し下さいませ。この責めは私がいかようにもお詫び致します」
 おみねが震えながら詫びると、丸顔の方が舌打ちした。
「生憎と、そなたのような山猿の化けたような猪女に用はない。俺たちにも好みというものはあるのでな」
 二人はそう言いながら、顔を見合わせ下品な笑い声を上げた。
「さ、お内儀。我等と共にゆこうぞ」
 背の高い男がお逸の腕を掴んだまさにその時。
 背後から唐突に声が響いた。
「もし、お侍さま。そのお方は手前どもの主(あるじ)伊勢屋清五郎の内儀にございます。何がございましたかは判りませぬが、どうか、ご無礼はこれでお見逃しのほどを」
 お逸がハッと振り返ると、長身の若い男がすっと立っていた。この侍たちと年頃は変わらず、上背のある侍より更に少し身の丈がある。いかにも律儀なお店者といった風情の若者で、なかなか秀麗な面立ちをしている。
 急に出現した男は懐からさっと紙に包んだ金子のようなものを取り出すと、背の高い侍に握らせた。
「まあ、そういうことなら、この場は勘弁してやっても良いが」
 見かけによらず、あっさりと引くのに、傍らの丸顔が首を振った。
「あいや、待て。今日日(きようび)、御家人を馬鹿にする町人どもが多いのは嘆かわしいこと、そのようなはした金で、そちらの無礼は到底許せぬ。聞けば、伊勢屋は相当に羽振りが良いと申すではないか、仮にもその伊勢屋の内儀であれば、もう少し金を出したら、どうなのだ」
 要するに、この際、もっと金を強請ろうという魂胆なのだろう。それが見え見えであった。仮にも将軍家にお仕えする直参がこの有り様とは、武士の体面も何もあったものではなかろうに。
 お逸が呆れている傍で、若い男は慇懃に腰を屈めた。
「されば、これでは、いかがにござりましょう」
 更に懐から金包みを出すと、丸顔は難しげな顔で首を振る。次の瞬間、若い男が威勢の良い啖呵を切った。
「おい、無抵抗な若い女二人に向かって、良い大の男がよってたかって、何してやがるんでえ。天下の直参だとぬかすからには、どれだけ落ちぶれても、それだけの気概を持たねえか、この三品」
 まるで人が変わったかのような変貌ぶりに、侍二人は毒気を抜かれたように立ち尽くしている。短い静寂の後、長身の方が刀を抜いた。
作品名:天つみ空に・其の一 作家名:東 めぐみ