天つみ空に・其の一
暦は既に霜月の上旬に入ってはいたものの、日中はまだまだ、動けばうっすらと汗ばむほどの陽気が続いている。庭に面した障子戸はすべて開け放し、小庭が見渡せた。片隅に真っ赤に色づいた紅葉が秋の陽を浴びている。お逸は、その紅葉を眼を細めて見つめた。
「この度のことは、私も本当に愕きもしたし、残念にも思ってるんだよ」
清五郎はしばしば肥前屋にも訪れ、お逸はまるで血の繋がった叔父のように慕ってきた。幼い頃は膝の上に乗ってあやしてくれたし、たまにお逸の描いた絵を見せると、〝やはり血は争えない、仁左衛門さんの娘だね〟と賞めてくれた。
むろん、清五郎は父の葬儀にも顔を見せたけれど、それ以外、ここのところは顔を合わせてはいない。清五郎がお逸を養女にした上、肥前屋の借金をすべて肩代わりしてくれるという話もすべては叔父基次郎を通して聞かされた。
「伊勢屋さんには、本当にどこまでお礼を申し上げたら良いのか判りません。ありがとうございます」
お逸が両手をついて頭を下げると、清五郎は細い眼をなおいっそう細めた。
「いや、たいしたことではないよ。肥前屋さんとは子どもの時分から懇意にして貰い、殊に仁左衛門さんには弟のように可愛がって貰った。私にできることであればと思ったまでのことだ。それよりも、そんな風に堅苦しくならずに、これまでのように気楽に喋ってくれないか。そう固くなられたら、私の方までが調子が狂ってしまう」
「ごめんなさい」
お逸はうつむくと、うす赤くなった。
「私たちは、たとえ形ばかりとはいえ、夫婦(めおと)になるのだからね」
その言葉に、お逸は弾かれたように面を上げた。
「え―」
そんな話、聞いていないと咄嗟に思った。
「あの、伊勢屋さ―いえ、清五郎さん。私が叔父から聞いた話では、確か養女にということでしたが」
やっとの想いで言った。確かに、基次郎はそう言ったはず。なのに、どうして、いきなり、養女ではなく夫婦といった話になるのか。
お逸は内心の当惑と動揺を隠せない。
「ああ」
清五郎は頷き、鷹揚な笑みを浮かべた。
「その話なら、大方は縹屋さんの勘違いだろう。私は確かに縹屋さんには、お逸ちゃんを妻に申し受けたいと言ったのだが、その際、表向きは女房として迎えても、内実は養女に迎えるようなものだからと言った。そのつもりゆえ、祝言なども一切派手派手しいことはしないつもりだ」
お逸は言葉を失った。山ほどの借金を肩代わりして貰った挙げ句に、文句を言えるはずではないのは判っているけれど、清五郎の言い分はどうにも腑に落ちない。
端から娘を迎えるつもりだというのであれば、何ゆえ、お逸を養女ではなくわざわざ妻として迎え入れる必要があるのか―。
それは、ほんの小さな引っかかりであった。魚の小骨が喉元に引っかかったような、些細なことで、一々気に病む必要はないことかもしれない。
お逸の胸を一瞬、空虚なものがよぎり、お逸はそれを慌てて遠ざけた。
「お逸ちゃん?」
考えに耽っていると、清五郎が訝しげに名を呼ぶ。
「は、はい」 お逸は慌てて清五郎を見た。
「先刻も言ったとおり、私は女房ではなく娘を迎えたと思っているのだから、遠慮などせずにゆっくりと過ごしなさい。ましてや―、お逸ちゃんのおとっつぁんの仁左衛門さんとはもう二十年来の付き合いで、私はお前さんがまだ赤児の頃から知っている。いわば、お逸ちゃんは私にとっても娘か妹のようなものだからね。欲しい物があれば、何なりと言えば良いし、ここをこれまでいた自分の家だとと思って気儘に暮らせば良いんだよ」
清五郎の笑みはどこまでも優しげで、言葉にもお逸への心からの労りがこもっている。
お逸の感じていたわずかな不安は、その清五郎の優しげな笑顔に溶かれされてゆく。
お逸の新しい日々が、こうして始まった。
清五郎の言葉に偽りはなかった。お逸は肥前屋で暮らしていた頃と同じように、気儘気随に過ごすことができた。約束どおり、清五郎はお逸を女房としてではなく、養女(むすめ)として扱った。実家にいた時分にしていた琴の稽古もこれまでどおりに続けられたし、伊勢屋の奥向きのことは一切触れることもなく、また聞かされることもなく、ただ奥の座敷で好きなことをしていれば良かった。
あまりにこれまでと変わらぬお嬢さま暮らしに、かえって当のお逸の方が戸惑ったほどだ。しかし、主の清五郎からは妻ではなく娘なのだと言われているのだから、かえって出過ぎたことを―伊勢屋の内情にあれこれと関心を持ったり、ましてや口出しをすべきではないと自らを固く戒めていた。
それでも、日に三度の膳の上げ下げに至るまで、すべて女中がやってくれ、お逸は何もすることがない。それでは、あまりに申し訳ないと清五郎に一度はせめて何か自分の部屋の掃除くらいはさせて欲しいと頼んでみたが、清五郎は笑って〝そんなことは、お前の気にすることではない〟と首を振るだけだった。
肥前屋の娘として暮らしていた頃は、自分の部屋の掃除や身の回りのことくらいは自分でしていたのだ。それが、ここに来てからというもの、何もすることがなく、すべてお付きの女中が世話を焼いてくれる。ありがたいのはむろんだが、あまりに構われすぎて、かえって気詰まりなほどであった。
伊勢屋に迎えられた翌日、清五郎とお逸の祝言がごく内輪で執り行われた。その場に連なったのは、証人としてお逸の叔父縹屋基次郎だけで、後は小さな金屏風を引き回した前に、新郎新婦が居並び、約束の杯事をしただけという、至って形式的、簡略なものだった。
それでも、生まれて初めて白無垢を身に纏い、綿帽子を目深に被ったときは、お逸も胸に迫るものがあった、傍らの清五郎はまるで人形のような花嫁を微笑んで見つめている。
後に、清五郎はお逸に語った。
「ちゃんとした祝言は本当は肥前屋さんの一周忌を終えてからでも良いと思ったんだ。今はとりあえずは仮祝言だけで良いのではないかとね。しかし、どうせ、祝言を挙げるのであれば、今も一年後も同じことだからね。お前さんを迎える前は、形だけの夫婦ゆえ、祝言そのものも要らないのではと考えていたほどだった。それでも、私は二度目でも、お前さんにとっては初めての祝言だ。一度は白無垢も着てみたかろうと思い直したのだよ」
清五郎は十八のときに一度、女房を迎えている。遠縁の同業のお店から娶った最初の妻は、初めての子を流産した後、肥立ち良からずみまかった。祝言を挙げて、わずか一年半後のことである。以来、清五郎は妻を迎えていない。
清五郎の気遣いは嬉しくはあったが―、お逸にしてみれば、眼も覚めるような白無垢をその身に纏う晴れの日は、やはり惚れた男の隣に並びたかった。だが、それは、けして考えてはならぬことだ。清五郎の恩を思えば、到底口に出せることではない。
何より、清五郎は最初の言葉を守り、お逸に娘としての待遇を与えてくれている。これ以上の贅沢や我が儘を言えば、罰が当たるというものだろう。