天つみ空に・其の一
《其の壱》
聞き慣れたはずの男の声が何故かひどく遠く聞こえてくる。お逸は軽い眩暈を憶えて、思わず片手をこめかみに当てた。
「お逸ちゃん?」
訝しげな声。相手も流石に、お逸が心ここにあらずといった体なのに勘づいたのだろう。何しろ、伊勢屋の清五郎といえば、まだ漸く三十の若さながら、同業の呉服商から一目置かれるほどの凄腕と見なされている。勘の鋭さは、お逸のような小娘が太刀打ちできたものではあるまい。
だが、お逸は何も清五郎に刃向かうつもりなぞ、さらさらない。むしろ、清五郎は、すべてを失ったお逸にたった一人、救いの手を差しのべてくれた、いわば地獄に仏のような存在なのだ。感謝こそすれ、どうして敵愾心を抱いたりするものか。
が、清五郎が先刻、口にした科白は、たとえ恩人の言葉としても納得できるものではない。
お逸は十五になる。元々は江戸でも指折りの呉服太物問屋肥前屋の娘だった。元々はと言ったのは、既に肥前屋が店を畳んだからに他ならない。お逸の父仁左衛門は三十六の若さで数日前、急逝してしまった。死因は心ノ臓の発作である。生来、心臓を患っているわけでもなく、健康であることを誰よりも自負していた働き盛りの父の突然の死であった。
肥前屋は伊勢屋とは肩を並べる大店であり、老舗であった。商売上の競争相手ではあったけれど、古くからの付き合いがあり、仁左衛門と清五郎は幼時から親交があったという。六つ違いの清五郎を仁左衛門は弟のように可愛がり、二人共に〝雅風会〟という私的な集まりの一員でもあった。
雅風会というのは、絵をたしなむ者たちの集まりで、構成員は主に肥前屋や伊勢屋のようなお店(たな)の主人ばかりである。むろん、玄人の絵師ではなく、素人ばかりの趣味で絵をたしなむ者たちばかりではあったが、誰もが単なる大店の旦那の道楽というよりは、それをはるかに越えた作を描いた。知らぬ者が見ればいずれ名のある絵師が描いたというほどの作品を描く。
この集まりはそもそもは仁左衛門が立ち上げたものであり、草創期からの会員として清五郎や他に気心の知れた数名の者がいた。その後、会員は次第に増え、目下のところは二十名近くを数えるほどの大所帯となっている。
亡くなった夜、仁左衛門は深川の同業仲間の寄合に出かけていた。そこで、機嫌良く酒を呑み談笑していた最中、突然胸を押さえて苦しみ出したのである。急遽医者が呼ばれ、その身柄は肥前屋まで運ばれてきたが、その夜半、治療の甲斐も空しく息を引き取った。むろん、その場には清五郎もいて、清五郎は戸板に乗せられた父にずっと付き添い、肥前屋まで送り届けてくれたのである。
父の死後、予期せぬことが明るみになった。あろうことか、父が多額の借金を残していたというのだ。肥前屋の商いはもう随分と前から傾いていて、仁左衛門は方々から借金をしていた。最後にはどうにもならなくなり、高利にまで手を出していたらしい。
その事実を知らされ、お逸は愕然とした。仁左衛門はお逸を掌中の玉と愛でた。お逸を生んで産後の肥立ち良からず亡くなった女房の面影を追い、再婚もせずに独り身を通してきた。お逸は早くに亡くなった女房に生き写しで、可憐な花のような、整った面立ちの少女であった。仁左衛門は愛娘には商売のことは一切語らなかったゆえ、お逸は迂闊にも肥前屋がそこまで傾いていること、父がのっぴきならぬ苦境に陥っていることを知らなかったのだ。
後に、医者の診立てでは父の死因は心臓発作と判ったけれど、その引き金となったのも心労と過労が高じてのことに相違ないと聞かされた。その時初めて、お逸は口惜しさに歯がみした。自分さえ、もっとしっかりしていれば。父に甘やかされて、やれ絵だ琴の稽古だと自分の愉しみや習い事にばかりかまけていなければ、父の苦衷をもっと早くに察することができたかもしれない。
自分は、あまりに迂闊で世間知らずすぎた。父に甘えてばかりで、父の身体のことも商売のことも少しも考えてみようとはしなかった。お逸は、そのことで我と我が身を責めた。
父の葬儀が終わった後も、優しかった父の笑顔ばかりが瞼に甦り、父の位牌のある仏間に一人こもって泣いてばかりいた。
そんなある日、父の弟に当たる縹屋(はなだや)の主人基次郎(もとじろう)が来て、お逸は遅かれ早かれここを出てゆかねばならぬことを言い渡された。基次郎は二十歳の砌、先代―つまり仁左衛門と基次郎の父から暖簾分けして貰い、今の店を持った。
基次郎は父のたった一人の弟であったが、どういうものか、父とこの弟は昔から仲が良くなかった。その昔、若かりし頃、父と叔父が一人の女を巡って対立したことがある―と、口さがない者たちはいう。
その女というのが、お逸の母お駒であった。噂の真偽は定かではないけれど、叔父が肥前屋に来ることなぞ、ついぞない。それが突如として現れ、かすかな優越感すら滲ませながら、お逸にここから立ち退くようにと告げたのだ。基次郎は言った。仁左衛門の借金はあまりにも多額のため、到底、弟の自分一人で支払い切れるものではないこと、また、このままでは、お逸は借金のかたとして、遊廓に身を沈めねばならないことなどを素っ気ない口調で話した。
お逸は、叔父の話を唇を噛みしめて聞いた。それが事実であるというならば、お逸はその事実を甘んじて受け容れねばならぬだろう。ところが、基次郎は話の終わりに、思いもかけぬことを言った。
―だが、世の中には奇特な御仁がいるものだね。ほら、あの〝伊勢屋〟の清五郎さんがお前の身柄を引き受けるばかりか、何と、この店の借金すべてを肩代わりしても良いとおっしゃってるんだよ。
お逸は眼を見開いて、叔父を見つめた。叔父はいささか悔しげな口調で、口許を歪めた。
―全く、物好きというか酔狂というか、お前を養女に迎えて下さるばかりか、兄さんの残した借金までをも耳を揃えてきっちり返済して下さるとは。伊勢屋が羽振りが良いのは聞いていたが、あれだけの金を一括して返して、身代がいささかも揺るがないとは―、あの清五郎という男、見かけは穏やかで、いかにも清廉潔白といった澄ました顔をしてるが、裏では何をしてるか判ったもんじゃない。
忌々しそうに言い捨てた叔父の表情は、どう見ても、たった一人の姪が身の落ち着く先を見つけられたのを歓んでいるようには見えなかった。清五郎のこともそんな風に口汚く罵った挙げ句、兄の位牌に手を合わせることすらなく脚音も荒く帰っていったのだ。
父の葬儀を終えた数日後、お逸は住み慣れた肥前屋を出た。これ以後、肥前屋は看板を下ろし、父を含めて四代続いた老舗はなくなってしまうのだ。そう思うと、不覚にもまた涙が零れそうになりながらも、伊勢屋から迎えによこされた駕籠に乗った。
そして、今、清五郎とこうして相対面しているといったわけだ。だが、出迎えた清五郎から聞かされた言葉は意外なものだった。
肥前屋に着くなり、お逸はまず奥の客用の座敷に通された。清五郎が床の間を背にして座り、お逸はそれに向かい合う形でやや下座に座る。床の間に掛けてある軸は、秋の七草。〝清風〟と落款が押してあることから、主の清五郎自身の手になるものだと判る。
聞き慣れたはずの男の声が何故かひどく遠く聞こえてくる。お逸は軽い眩暈を憶えて、思わず片手をこめかみに当てた。
「お逸ちゃん?」
訝しげな声。相手も流石に、お逸が心ここにあらずといった体なのに勘づいたのだろう。何しろ、伊勢屋の清五郎といえば、まだ漸く三十の若さながら、同業の呉服商から一目置かれるほどの凄腕と見なされている。勘の鋭さは、お逸のような小娘が太刀打ちできたものではあるまい。
だが、お逸は何も清五郎に刃向かうつもりなぞ、さらさらない。むしろ、清五郎は、すべてを失ったお逸にたった一人、救いの手を差しのべてくれた、いわば地獄に仏のような存在なのだ。感謝こそすれ、どうして敵愾心を抱いたりするものか。
が、清五郎が先刻、口にした科白は、たとえ恩人の言葉としても納得できるものではない。
お逸は十五になる。元々は江戸でも指折りの呉服太物問屋肥前屋の娘だった。元々はと言ったのは、既に肥前屋が店を畳んだからに他ならない。お逸の父仁左衛門は三十六の若さで数日前、急逝してしまった。死因は心ノ臓の発作である。生来、心臓を患っているわけでもなく、健康であることを誰よりも自負していた働き盛りの父の突然の死であった。
肥前屋は伊勢屋とは肩を並べる大店であり、老舗であった。商売上の競争相手ではあったけれど、古くからの付き合いがあり、仁左衛門と清五郎は幼時から親交があったという。六つ違いの清五郎を仁左衛門は弟のように可愛がり、二人共に〝雅風会〟という私的な集まりの一員でもあった。
雅風会というのは、絵をたしなむ者たちの集まりで、構成員は主に肥前屋や伊勢屋のようなお店(たな)の主人ばかりである。むろん、玄人の絵師ではなく、素人ばかりの趣味で絵をたしなむ者たちばかりではあったが、誰もが単なる大店の旦那の道楽というよりは、それをはるかに越えた作を描いた。知らぬ者が見ればいずれ名のある絵師が描いたというほどの作品を描く。
この集まりはそもそもは仁左衛門が立ち上げたものであり、草創期からの会員として清五郎や他に気心の知れた数名の者がいた。その後、会員は次第に増え、目下のところは二十名近くを数えるほどの大所帯となっている。
亡くなった夜、仁左衛門は深川の同業仲間の寄合に出かけていた。そこで、機嫌良く酒を呑み談笑していた最中、突然胸を押さえて苦しみ出したのである。急遽医者が呼ばれ、その身柄は肥前屋まで運ばれてきたが、その夜半、治療の甲斐も空しく息を引き取った。むろん、その場には清五郎もいて、清五郎は戸板に乗せられた父にずっと付き添い、肥前屋まで送り届けてくれたのである。
父の死後、予期せぬことが明るみになった。あろうことか、父が多額の借金を残していたというのだ。肥前屋の商いはもう随分と前から傾いていて、仁左衛門は方々から借金をしていた。最後にはどうにもならなくなり、高利にまで手を出していたらしい。
その事実を知らされ、お逸は愕然とした。仁左衛門はお逸を掌中の玉と愛でた。お逸を生んで産後の肥立ち良からず亡くなった女房の面影を追い、再婚もせずに独り身を通してきた。お逸は早くに亡くなった女房に生き写しで、可憐な花のような、整った面立ちの少女であった。仁左衛門は愛娘には商売のことは一切語らなかったゆえ、お逸は迂闊にも肥前屋がそこまで傾いていること、父がのっぴきならぬ苦境に陥っていることを知らなかったのだ。
後に、医者の診立てでは父の死因は心臓発作と判ったけれど、その引き金となったのも心労と過労が高じてのことに相違ないと聞かされた。その時初めて、お逸は口惜しさに歯がみした。自分さえ、もっとしっかりしていれば。父に甘やかされて、やれ絵だ琴の稽古だと自分の愉しみや習い事にばかりかまけていなければ、父の苦衷をもっと早くに察することができたかもしれない。
自分は、あまりに迂闊で世間知らずすぎた。父に甘えてばかりで、父の身体のことも商売のことも少しも考えてみようとはしなかった。お逸は、そのことで我と我が身を責めた。
父の葬儀が終わった後も、優しかった父の笑顔ばかりが瞼に甦り、父の位牌のある仏間に一人こもって泣いてばかりいた。
そんなある日、父の弟に当たる縹屋(はなだや)の主人基次郎(もとじろう)が来て、お逸は遅かれ早かれここを出てゆかねばならぬことを言い渡された。基次郎は二十歳の砌、先代―つまり仁左衛門と基次郎の父から暖簾分けして貰い、今の店を持った。
基次郎は父のたった一人の弟であったが、どういうものか、父とこの弟は昔から仲が良くなかった。その昔、若かりし頃、父と叔父が一人の女を巡って対立したことがある―と、口さがない者たちはいう。
その女というのが、お逸の母お駒であった。噂の真偽は定かではないけれど、叔父が肥前屋に来ることなぞ、ついぞない。それが突如として現れ、かすかな優越感すら滲ませながら、お逸にここから立ち退くようにと告げたのだ。基次郎は言った。仁左衛門の借金はあまりにも多額のため、到底、弟の自分一人で支払い切れるものではないこと、また、このままでは、お逸は借金のかたとして、遊廓に身を沈めねばならないことなどを素っ気ない口調で話した。
お逸は、叔父の話を唇を噛みしめて聞いた。それが事実であるというならば、お逸はその事実を甘んじて受け容れねばならぬだろう。ところが、基次郎は話の終わりに、思いもかけぬことを言った。
―だが、世の中には奇特な御仁がいるものだね。ほら、あの〝伊勢屋〟の清五郎さんがお前の身柄を引き受けるばかりか、何と、この店の借金すべてを肩代わりしても良いとおっしゃってるんだよ。
お逸は眼を見開いて、叔父を見つめた。叔父はいささか悔しげな口調で、口許を歪めた。
―全く、物好きというか酔狂というか、お前を養女に迎えて下さるばかりか、兄さんの残した借金までをも耳を揃えてきっちり返済して下さるとは。伊勢屋が羽振りが良いのは聞いていたが、あれだけの金を一括して返して、身代がいささかも揺るがないとは―、あの清五郎という男、見かけは穏やかで、いかにも清廉潔白といった澄ました顔をしてるが、裏では何をしてるか判ったもんじゃない。
忌々しそうに言い捨てた叔父の表情は、どう見ても、たった一人の姪が身の落ち着く先を見つけられたのを歓んでいるようには見えなかった。清五郎のこともそんな風に口汚く罵った挙げ句、兄の位牌に手を合わせることすらなく脚音も荒く帰っていったのだ。
父の葬儀を終えた数日後、お逸は住み慣れた肥前屋を出た。これ以後、肥前屋は看板を下ろし、父を含めて四代続いた老舗はなくなってしまうのだ。そう思うと、不覚にもまた涙が零れそうになりながらも、伊勢屋から迎えによこされた駕籠に乗った。
そして、今、清五郎とこうして相対面しているといったわけだ。だが、出迎えた清五郎から聞かされた言葉は意外なものだった。
肥前屋に着くなり、お逸はまず奥の客用の座敷に通された。清五郎が床の間を背にして座り、お逸はそれに向かい合う形でやや下座に座る。床の間に掛けてある軸は、秋の七草。〝清風〟と落款が押してあることから、主の清五郎自身の手になるものだと判る。