鈴~れい~・其の三
普段はひっそりと静まり返っているけれど、春には墓の周囲の野苺の樹が紅いつぶらな実をたわわに実らせ、春らしい彩りに囲まれ、賑やかになる。わずか十八歳の若さでひっそりと逝ったお香代が永遠(とわ)の眠りにつくにはふさわしい場所かもしれなかった。
その小さな墓石の前に、二人の若夫婦が佇み、合掌していた。夫婦は良人の方が二十歳過ぎくらい、妻は十八ほどである。二人共に旅装束に身を包み、これから長い旅に出ようとしていることが判った。
「お香代ちゃん、どうか安らかに眠ってね」
若い妻がその場にしゃがみ込み、そっと手を伸ばして墓石に触れる。墓の前には二人が供えたばかりの百合の花束が置かれ、線香が細い煙をたなびかせていた。
背後に佇む良人が妻の肩に手のひらを乗せる。
「本当に良いのですか?」
美しい妻が眼を閉じて合掌したまま言う。
良人が屈託ない笑みを見せた。
「何度申したら、判るんだ? 私はもう決めたのだ。そなたの腹の子は、紛れもない私の子、私とそなたの子どもだ」
「―」
妻は何も言わず、立ち上がる。
そう、この二人こそが木檜城から姿を消した藩主木檜嘉利の側室藤乃の方ことお亀と、柳井道場の前道場主柳井小五郎であった。
十日ほど前の夜、木檜城に再度忍び込んだ小五郎の手引きで今度こそお亀は城を逃れた。あの時、嘉利はお香代の幻影に悩まされ、精神的な恐慌状態に陥っていた。お亀は最後まで、頭を抱えて苦しむ嘉利の身を案じながら城を出たのだ。
あれから嘉利がどうなったのか、共に逃げた小五郎には訊ねなかったが、ずっと気になっていた。辛くも城を無事脱出した二人は、とりあえず城下の小五郎の知人宅に匿われた。その屋敷は小五郎の兄相田久磨の妻寿恵の妹の嫁ぎ先であり、寿恵の妹光恵は既にお産で亡くなっていたが、良人永居源一郎は健在、快く二人の身柄を引き受けてくれた。
実は、この永居の許に小五郎は道場を閉めて逐電してからというもの、ずっと世話になっていたのである。永居もまた軽輩ではあるが、木檜藩士の身であった。永居と小五郎は少年時代からの無二の親友でもある。二人して柳井道場の門弟として切磋琢磨して剣の腕を磨いた間柄であった。
小五郎は城を出た後もそのことについては一切触れようとはしなかったけれど、数日後、永居源一郎を通じて、後の木檜城内のなりゆきについての情報が伝えられた。
二人が城を出奔した夜、藩主嘉利は狂乱状態に陥った。その後も、そのような発作を繰り返し、虚空をにらみつけては〝鬼がいる、鬼が余を殺しに参る〟と口走って怯えていたという。
嘉利は、ついに正気を取り戻すことはなかった。半月近くが経ち、家老矢並頼母他、重臣一同は合議の上、分家筋から前藩主嘉倫の異母弟倫(みち)為(なり)の子万菊丸を迎え、新しい藩主を立てることに決めた。万菊丸は漸く九歳の幼君ではあるが、早くから神童との誉れが高く、学問・武芸においても衆に抜きん出でいると聞く。万菊丸が藩主となった暁は、実父倫為がその後見となることになっている。
お亀と小五郎は永居源一郎の屋敷にひと月近く身を潜めていた。その頃には、お亀は我が身の胎内に新しい生命が宿っていることを確信していた。―お亀は嘉利の子を懐妊していたのだ。懐妊をはっきりと自覚したその日、お亀は小五郎にそのことを伝えた。その上で、やはり、自分は小五郎の妻にはなれぬと告げたのである。
だが、小五郎は頑として譲らなかった。
他の男の―しかも、小五郎にとっては前妻お香代の敵である嘉利の子を宿していると知りながら、小五郎の傍にいるわけにはゆかない。
お亀が自分の気持ちを話すと、小五郎はきっぱりと言い切った。
―良いのだ、私たちの子として育てよう。
お亀が嘉利と過ごしたのはふた月にも満たない。しかし、その間に、お亀は殆ど毎夜のように嘉利に抱かれた。身ごもっていたとしても不思議もないが、たったそれだけの間で嘉利の子を宿すとは皮肉な話でもあった。
思えば、嘉利とお亀は、つくづく数奇な縁(えにし)の糸で結ばれていたのだろうか。恐らく二人は出逢うべくして出逢い、そして別れた。
お亀は嘉利の子をその身に宿すという宿命(さだめ)を最初からその身に負うていたのだろう。腹の子の存在は、嘉利から受けた辱めの記憶を呼び覚ますものでもある。が、お亀は最初からこの子を生むつもりであった。
男に烈しく愛されながらも、ついにその男を愛することのできなかったお亀。それでも、嘉利に言ったように、嘉利がお亀にとって大切な人であったことは事実なのだ。
大切な人の子であれば、お亀もまた大切に育てたい。嘉利を愛せなかった分まで、愛情を込めて嘉利の血を分けたこの子を育てたかった。実の父に伯父子と呼ばれ、冷たい眼で見られた嘉利は、長じて殺戮を好み畜生公と呼ばれる悪名高き藩主となった。
そのような悲劇を、もう二度と繰り返さぬためにも。この子は両親の愛情を惜しみなく与えて、人の温もりの中で育てたい。この子の父のけして知り得なかった優しさや温もりを教えてやりたかった。今となっては、嘉利の子を授かったのもやはり運命なのだと思える。この子を立派な人間に育て、教え導くことこそが嘉利へのせめてもの詫び、いや、真心だろう。
小五郎に胸の想いを話すと、小五郎は笑って頷いた。
―そうだな、愛され慈しまれ大切に育てられた子は、また、その中で自ずと人の愛や優しさを知るものだ。それゆえ、我らはこの子を大事に育てよう。この子もまた長じて、人を愛せる人となるように。
そう力強く言ってくれた小五郎の言葉が今は何より頼もしい。お亀は、あの時、小五郎がくれた言葉を改めて思い出していた。
愛され慈しまれ大切に育てられた子は、また、その中で自ずと人の愛や優しさを知るものだ。その言葉を頼りに、これからはこの男と歩いていってみようと決めた。やがて生まれくる子どもと三人で新しい家族を作るのだ。
お亀は懐からお香代の形見の鈴を取り出す。木檜城でお亀が嘉利に首を絞められようとしていたその時、この鈴が突如鳴り出し、お亀の危機を救ってくれたのだ。
あの時、この小さな鈴が起こしたのは、まさに奇蹟としか言いようがなかった。お亀には嘉利が視たというお香代は見えなかったけれど、最初は小さかったこの鈴の音がやがて幾千もの鈴が同時に鳴り響いているような大音響に変わったのは確かにこの耳で聞いた。
もしかしたら、あの夜、この鈴を鳴らしたたのは、お香代だったのだろうか。
―お香代ちゃん、私の生命を助けてくれて、ありがとう。
お亀は心の中で亡き友に礼を言うと、紅い紐のついた鈴をそっと墓石の上に置いた。やはり、この鈴は、この場所に返すのが、お香代に返すのがふさわしいような気がする。
「そろそろ参ろうか」
小五郎が言うと、お亀は頷いた。
杖を持ったお亀の前に大きな手のひらが差し出される。お亀はその手を握った。
もう二度と放さない。これから小五郎とお亀は、この国ではないどこか別の国で生きてゆかねばならない。多分、生まれ故郷のこの国に戻ってくることは二度とないだろう。
それでも良い。心から愛した男と共にゆけるのなら、たとえどこにだってついて行く。