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鈴~れい~・其の三

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 嘉利がふらふらと立ち上がる。まるで夢遊病者のようによろめき、ふらつきながら、数歩前へと歩いたかと思うと、何ものかを追い払うように片手をせわしなく振った。
「く、来るな。俺に近付くな。消えろ、今すぐにこの場から失せろ」
 お亀には、この時、鈴の音は確かに聞こえていたのだけれど、嘉利に視えていたものまでを見ることはなかったのだ。
 実は、この時、嘉利の眼には微笑んで手招きしている女が映じていたのである!
 わずかによろよろと後ずさった嘉利がへたり込んだ。
「お、鬼」
 その禍々しいひと言に、お亀は思わず息を呑んだ。

 チリーン 。チリーン。
 忌々しいこの鈴の音が鳴る度に、頭が割れそうに痛む。しかも、厄介なことに、この鈴の音は次第に大きくなり、まるで何千個もの鈴が同時に鳴っているような大音響でこの部屋に響き渡っている。
 死者を弔う葬列の奏でるような、陰鬱な、聞いているだけで気が滅入るような、厭な音だ。
 それに、何だ、この女は。
 嘉利は、自分の眼前でいかにも気遣わしげに自分を見つめる女を見た。
 美しい女だ。
 ただ美しいだけでなく、あどけなさすら漂う可憐な女なのに、不思議な色香のある女だ。
 美しい女なら、厭というほど見てきたが、これほど美しい女は見たことがない。
 まるで天女のようではないか。
 天女が婉然と微笑んだ。
 いや、これは違う。先ほどまでの女ではない。先刻までの女は清純な美しさを持っていたが、この女はまるで違う。確かに美しい女には違いないが、眼許に険しさがあって、つり上がった眼がまるで狐のようだ。
 嘉利は昔から、こういう類の女が大嫌いだった。こういう女は自分の美しさを自覚している。自分は誰よりも美しいと、自分の美貌が男を惹きつけることを十分に意識している鼻持ちならない女が多い。
 こんな女は無意識の中に他人を傷つけることが多いものだ。自分は美しいのだと、自分より少しでも容色の劣った同性を見れば、ひそかな優越感に浸り、自分の美しさを誇示しようとする。そんな態度が随分と相手を傷つけていることも知らない、上辺だけはそこそこ美しくとも、中身のない薄っぺらな愚かな女だ。
 自分中心に世界が回っているような気でいるから、他人に対してどこまでも残酷になれる。自分の幸せや成功をまるで天下でも取ったように得意げに吹聴して回る。優しさなど、かけらもない。
 狐面のような女が微笑んでいる。
 微笑みながら、女がひらひらと手で差し招く。こちらへおいでというように、嘉利に手を振って見せる。
 厭だ。俺はまだ、お前なんぞについてゆく気はない。嘉利が背を向けようとしたその時、女の顔がグニャリと歪んだ。
 あたかも能面の女(おみな)が般若に変ずるように、美しい面が瞬時に悪鬼のような形相に変わる。白い顔はどす黒く染まり、紅い唇は耳まで裂けニョッキリとした二本の牙が突き出た。細くつり上がっていた両の眼(まなこ)はギョロリと零れ落ちんぼかりに大きく見開き、目玉が飛び出ている。
「お、鬼」
 嘉利は恐怖に戦慄きながら、後ずさる。
 二、三歩後退したところで、みっともなく尻餅をついてしまった。
 その時、ハッとした。
 この鬼の着ている小袖には確かに見憶えがあった。薄い紅地に白く小さな梅の花が散っていたこの柄は―、そう、今年のまだ春浅い頃、森で出逢い、近習の尾野晋三郎と二人がかりで手込めにした女の着ていたものと全く同じものだ。
「ゆ、許してくれ。止めてくれ。許してくれ。俺が悪かった。俺が悪かったと、このとおり謝る。だから、もう止めてくれ。許してくれ。俺をこれ以上苦しめないでくれ」
 嘉利は震えながら、その場に這いつくばった。
 と、ひとたびは小さくなっていた鈴の音が再び大きくなった。チリーン。チリリーン。
 まるで死人を悼むかのような物哀しい音色が嘉利の脳天に響く。たまらない不快感に、嘉利は頭を押さえ、もんどりうった。
 これは罰だ。あの女の、森で晋三郎と二人で手込めにした女の呪いだ。
 そう思った時、耳奥で女の声が響いた。
―そう、それはまさしく天罰。罪なきあまたの生命を無益に殺し、泣き叫ぶ娘たちを犯し辱めた愚かなそなたへの報い!!
 声とともに、けたたましい女の嗤い声が聞こえる。その嗤い声はやがて幾つもの鈴の音と重なり、嘉利の頭にガンガンと響き渡った。
 烈しい頭痛が嘉利を襲う。
 嘉利は息も絶えるような苦悶に呻き、その場を転がり回った。

 お亀は固唾を呑んで、苦しみのたうち回る嘉利を見つめていた。
 時ここに至り、お亀にも漸く状況が理解できた。
 嘉利は、お香代の亡霊を視ているのだ。
 いや、亡霊なぞというものがこの世に現実に存在するのかどうか判らない。しかし、嘉利に犯され、身ごもった末に非業の死を遂げたお香代の怨念が今、ここにかつての姿を取り戻し現れたのだとしても、いささかの不思議はないだろう。
 もしかしたら、嘉利が見ているのは、彼自身の過去に犯した罪への呵責にすぎないのかもしれない。これまで己れが犯してきた悪行の数々への無意識の怖れと悔恨がお香代の幻影という形となって見えているだけなのかもしれない。
 いずれにせよ、嘉利についに仏罰が下されたのだ。
 と、強い力で手を引かれ、お亀は我に返った。振り向けば、そこに小五郎が立っていた。
「お亀どの、行きましょう」
「小五郎どの、どうしてここに」
 お亀の顔に愕きがひろがる。
「話は後でもできる。今はここを逃れることが肝要です」
 でも、と、お亀は、背後を見た。
 相変わらず頭を抱えて、もんどりうつ嘉利がいる。こんな状態の男を一人残して、行けるものではない。
「今、逃げねば、もう次の機会はない。さあ、早く」
 耳許で囁かれ、お亀は唇を固く噛みしめる。
 その眼は、大粒の涙が浮かんでいた。
 小五郎が手を引いても、お亀は動かない。
 お亀は、のたうち回る嘉利を見ながら涙を流して立ち尽くしている。
 小五郎は、そんなお亀を見て小さな息を吐いた。
「お亀どの、今のうちに」
 やや強い語調で促され、強く手を引っ張られ、漸く、よろめき小五郎に手を引かれたまま歩き出した。だが、それは自らの意思で歩くというよりは、小五郎に完全に引きずられているような形であった。
 お亀は途中で幾度も背後を振り返っていた―。

終章  ~悠遠(ゆうえん)~ 

 七月の森は、相変わらず鬱蒼と緑の葉を茂らせた樹々が林立していた。そのせいで、昼間とてなお、森の奥深くは薄暗い。
 木檜藩の城下町を抜けた先には、深い森が横たわっている。その森を抜けた先には小さな村があるが、森を抜けるには大の大人でも徒歩(かち)であれば、ゆうに丸一日近くかかった。
 その森の奥には、春になると、愛らしい実をつける野苺の茂みがある。その野苺の樹の前に、小さな丸い石がひっそりと安置され、傍らにはまだ真新しい白木の卒塔婆が建てられていた。
 〝定観院香泉妙代大姉〟と、白木の卒塔婆には墨跡も黒々と記されている。本当にささやかなもので、よくよく注意してみなければ、その小さな石が墓であるとは到底信じがたい。大抵の人は路傍の石と思い込んで、通り過ぎてしまうだろう。
作品名:鈴~れい~・其の三 作家名:東 めぐみ