鈴~れい~・其の三
お亀は眼を閉じ、そして、ゆっくり見開いた。
「しかしながら、私は嘉利さまを殿御としてお慕いしてはおりませぬ。そのお人柄をお慕いはしておりましても、一人の女人として殿を愛することはできませぬ」
「つまり、それは、俺を男として見られぬ、愛せぬと―そういうことだな?」
短い沈黙の後、嘉利がポツリと呟く。
「その気持ちはこれから先もずっと変わらぬと申すか。たとえ何があろうと、どれほどの月日を共に過ごそうと、俺たちは男と女として愛し合うことは叶わぬと?」
念を押すような言葉に、お亀は小さく頷いた。
「愚かな、―実に愚かな女だ! たとえ偽りでも俺に惚れていると申せば、その生命が助かるだけでなく、藩主のただ一人の側室として栄耀栄華も思いのままに過ごせるものを」
そんなことを、俗世の栄華を望むような娘ではない。そんな女であるがゆえに、嘉利はお亀を愛したのだ。お亀がそのような甘い言葉で心動かされるような女ではないと判っている嘉利は、空しい想いで言葉だけを連ねているようだった。
「殿を大切にお思い申し上げているからこそ、私は自らお傍を去るのでございます。大切な方に一生嘘をついて、偽りの愛を誓う方がかえって裏切りだと存じますゆえ。殿を欺き奉りながら、私はお傍にはおれませぬ」
しばらく嘉利から声はなかった。
「俺が、この俺がたとえ偽りの愛だとしても、そなたにずっと傍にいて欲しいと申しても、そなたはやはり俺の傍を去るのか?」
ややあって発せられた問いに、お亀は頷いた。
「ゆかせぬ。そなたを手放したりするものか」
ふいに、嘉利が暗い声で呟いた。
「俺はそなたを行かせぬぞ」
嘉利が突如としてお亀に襲いかかった。
そのまま二人でもつれ合うようにして褥の上に倒れ込む。嘉利がお亀の前結びになった帯に手を掛けた。
「―」
お亀の澄んだまなざしが嘉利を見上げている。憐れみでもなく、愛しさでもなく、ただ限りない優しさを込めて瞳が無心に嘉利を見つめていた。
「ええいッ、そなたは、この俺を愚弄するか。そのような澄ました顔をして、心では愚かな男、未練な男よと嘲笑っているのであろうが」
嘉利が苛立った声を上げ、お亀の襟元に手を掛け、乱暴におしひろげようとする。お亀は抵抗もせず、ただ黙って嘉利を受け容れようとしている。何かを諦めきったような静かな女の瞳が、嘉利の心を余計に波立てるようであった。
「許さぬ、俺はそなたを許さぬ! そこまで俺を馬鹿にするとは!」
嘉利がお亀の首に手を掛ける。両手をお亀の細首に回し、徐々に力を込めてゆく。
「良いか、これが俺を裏切ったそなたへの罰だ。これほどにそなたを求め必要としながらも、俺を愛さなかったそなたへの報復だ」
その時、嘉利の心をよぎった感情は何だったのか。我が物にならぬのなら、いっそのこと我が手で殺してしまえと思うほどの烈しい愛。我が身を裏切った女への憎しみ、切なさ、やり切れなさ。あまりにも烈しい愛は時として憎しみに変わる。だが、その刹那、嘉利の心をかすめたのは、深い哀しみと寂寥感であった。
お亀がこの時、泣き叫んで助けを求めていれば、嘉利の心はまだしも幾ばくかは救われていただろう。泣き縋り、生命乞いをすれば、嘉利はあっさりとお亀を許したはずだ。
たとえ不甲斐ない男、女に腑抜けていると嘲笑されようと、嘉利はそれほどまでにお亀に惹かれていた。
嘉利の予想に反し、お亀はただひたすら死の瞬間を従容として待っている。自分と同じように愛を返さなければ殺すという理不尽な男の言い分に反論すらせず、嘉利の突きつけた結論を黙って受け容れた。
たとえ殺されたとしても、嘉利の傍にはいられないのだと、偽りの愛を誓い、愛してもいないのに傍に居続けることはできないのだと言う。嘉利を男として愛することはできないにも拘わらず、愛しているふりをすることこそが、嘉利に対する本当の裏切りなのだとも。
恐らく、お亀の言い分は正しいのだろう。
狡猾な女であれば、藩主の愛妾という地位に固執し、嘉利の寵愛を良いことに身体だけは差し出しておきながら、心では嘉利を軽蔑したに違いない。女の身体は権力や金で好きなようにできても、心まではけして自由にできないのだと、嘉利の与える贅沢な暮らしをそこそこに愉しみながら、心の内では嘉利を侮蔑しただろう。
だが、お亀は、そんな器用な生き方はできない。ある意味で、正直すぎる不器用な女だともいえた。
判っている。理性では、もうとっくに判っている。お亀の言っていることは正しいのだと。自らの生命を危険に晒してまで、嘉利に正直な気持ちを伝え去ってゆこうとするのは、お亀が嘉利を誠実に想っているからだ、嘉利の立場を尊重し、その心を大切に考えているからだと。
それなのに、お亀のその優しさが今の嘉利には切なかった。そこまでの誠実さを見せる女を良い加減に解放し、側室という枷から解き放って自由にしてやることが今の嘉利にできる精一杯のことだと判っていながら、お亀の手を放すことができない。
憎まれても良い。嫌われても良い。憐れみでも何でも良いから、傍にいて欲しかった。未練がましい、しつこい男だと思われても、お亀を傍にとどめておきたいと願わずにはいられないのだ。
お亀は静かに眼を閉じた。嘉利の怒りは当然のことだ。ふた月もの間、嘉利の傍にいながら、嘉利から愛の言葉を囁かれながら、お亀は今この瞬間まで、己れの本心を明かさなかったのだから。そのことを騙していた、卑怯だと詰られれば、言い訳のしようもない。嘉利がそんなお亀に裏切られたと思ったとしても、仕方がない。
せめて、嘉利の心がこれ以上、傷つくことがないように、凍りつくことがないように。
ただ、それだけを祈った。
「許せ」
嘉利が更に両手に力を込めようとしたまさにその瞬間、どこかからチリーン、チリーンという音が聞こえてきた。
最初、本当にかすかな音だったのが、次第に大きくなり、お亀はハッと現に立ち戻り眼を開く。
チリーン、チリーン。まるで死者を弔うときの野辺送りで唱えるような、世にも物哀しい音、魂を揺さぶるような切ない音色だ。
突如として、嘉利がお亀の首から手を放した。
「う、うわあー」
嘉利は両手で頭を押さえ、その場にうずくまった。
その間にも、鈴の音はどんどん大きくなってゆく。やがて、初めは一つだった鈴の音が二つになり、三つになり、しまいには無数の鈴の音が重なって部屋中に響き渡った。
嘉利は頭を腕で抱え込み、苦しみ、のたうち回っている。
「殿、殿―!!」
お亀は自分が男に殺されかけていたことも忘れ、嘉利の傍に近寄った。
「あ、頭が割れるように、痛む」
嘉利が頭を抱えて呻いた。
「殿? いかがなされました? 頭(つむり)がお痛みになられるのでございますか」
これはただ事ではない。早く医者か誰かを呼ばなくてはならない。
「殿、すぐに誰かを呼んで参りますゆえ」
お亀がそんなことを考え、嘉利の顔を覗き込むと、嘉利が悲鳴を上げた。
「止めろ、止めてくれ」
「殿?」
お亀は茫然と眼を瞠った。