鈴~れい~・其の三
だからこそ、嘉利はあの娘に―その類稀なき強さに惹かれ、また、その優しさに癒やされた。風が吹けば、すぐにくずおれそうなほど脆くて儚いのに、凛として花開く野の花のようだ。そう、お亀が大切に、愛おしそうに眺めていた、あの花。露草のように。
あの一瞬で、恋に落ちた。だからこそ、すぐにお亀を殺さなかったのだ。あの時、どうせ後で殺せば良いのだと自分で言い訳めいたことを考えていたが、何のことはない、ただ本気で惚れてしまった女には流石の畜生公の異名を取る嘉利も刃は振り下ろせなかった―ただそれだけのことだ。
お亀こそ、嘉利が二十四年の生涯で初めて心から愛した女だったのだ。多くの女と身体を重ね、その中には女の方からしなだれかかってきたり、甘えてきたりした者もいた。最初は厭がっても、何度か閨に招けば、誰もが嘉利の前に身も心も投げだし、しまいには媚さえ見せるようになっていた。
お亀だけは、そんな大勢の女たちとは明らかに最初から違っていた。身体だけは共に過ごす夜を重ねている中に、確かに嘉利に素直に馴染んでいったけれど、あの女はけして最後まで心を渡そうとはしなかった。
だがと、嘉利は思う。
―俺はお前の見せかけだけの心なんか欲しくはなかった。俺が欲しかったのは、藩主の側室という地位や欲に眼がくらんで、投げ出した安っぽい心なんかじゃない、お前が真から俺を愛してくれているという心、その証だった。
お亀は、見せかけだけの愛でさえも、嘉利にはけして与えようとはしなかった。嘉利の腕の中でどれほど声を上げ、身もだえようと、最後まであの女の心が陥落することはなかった。
―いや、俺はお前を陥落させたかったわけじゃない。俺は、お前の真心が欲しかった。ただ、それだけだったんだ。ただ、お前という女に俺は愛されたかったんだ。
「そなたまでもが俺を裏切るのか」
悲痛な呟きが落ち、ひろがり始めた夕闇にひっそりと溶けてゆく。
茜色の夕陽が、涙に濡れた端整な横顔をうす紅く染めていた。
その夜のことである。お亀の寝所を嘉利が訪れた。お亀はいつものように白い夜着姿で藩主を迎え入れる。嘉利もまた毎夜のように、白い着流しであった。
お亀がこの寝所で男と忍び逢っていたという一件以来、はや数日が過ぎている。その間、嘉利のお渡りは流石に一度としてなく、お亀には自室で謹慎という一時的な沙汰が下されていた。
漆黒の夜空に下弦の月が頼りなげに浮かんでいる。整然と布かれた夜具を挟んで向かい合うように座り、お亀は嘉利と見つめ合った。
「俺は、これでもそなたを信じていたのだぞ」
どれほど長い間であったろう。実際には、それほどたいした時間ではなかったのかもしれない。水底(みなそこ)を思わせる白一色の閨の中、嘉利が張りつめた静寂を突き破るように唐突に口を開いた。
「男と逢っていたというのは真のことなのか」
その問いに、お亀はふわりと、微笑んだ。
まるで花のようだ、と、嘉利はこんなときでさえ、お亀の笑顔に見惚れた。
この女は美しくなった。この城に来たばかの頃は、いかにも田舎から出てきた垢抜けない娘といった印象が拭えなかったが、今はどうだろう。単に美しく装っているからというわけではない。きらびやかな小袖や豪奢な打掛、きれいに結い上げた髪や高価な簪や笄―そういった身を飾るすべてのもの、外見の美しさのみでなく、内側から滲み出てくる光輝、それがお亀の美しさをより際立たせている。
元々、内に秘めた美しさを持つ娘であった。嘉利はその内面の輝きにひとめで魅せられたのだ。このふた月ほどの間に、野暮ったい田舎娘は、見違えるようなお部屋さまに変貌を遂げた。もう、誰が見ても洗練された美しさを備えた、高貴な身分の女性にふさわしい気品を漂わせている。
加えて、男を知った娘が日毎に花開いてゆくように、お亀もまた嘉利の愛を得て美しく花開いた。あどけない少女のような素顔の他に、時折、ハッとするほどの妖艶さを見せ、殊に二人だけで過ごす閨で見せる恥じらいや裏腹に時に嘉利でさえ眼を瞠るほどの奔放さはなおいっそう彼を魅了した。
お亀を心身ともに女として成熟させたのは、言わずと知れた嘉利であった。だが、お亀が嘉利をやはり愛してはいなかったというのなら、愛してもおらぬ男に夜毎抱かれ、女として花開いたのは、お亀にとってはけして嬉しいことでも幸せなことでもなかったろう。
「何ゆえ、何も応えぬ」
嘉利が鋭い声で言った。お亀は依然として婉然と笑っている。
「そなたは俺を馬鹿にしているのか。それとも、何も申し開きをするすべもないということなのか。もし、このまま、そなたが何も申さねば、そなたはあの一件を事実と認めたことになるのだぞ? それが何を意味しておるのか、そなただとて判らぬではないだろう。そなたは側室とはいえ、俺の認めた、ただ一人の側女、妻も同然の立場だ。その側室が夜半に男と二人で忍び逢っていたとなれば、ただでは済まぬ」
俺は、そなたを殺したくはないのだ。
嘉利は喉元まで出かかった言葉を呑み込む。
お亀が両手をつき、面を上げた。
「殿、私は誓って、あの場にては殿を裏切るようなことは致してはおりませぬ」
「あの場にては―? 聞き捨てならぬことを申すな。では、今一度問うが、あの場以外では、俺を裏切るようなことをしたとでも申すのか」
「身を慎むという点におきましては、私は一切、殿を裏切るようなことは致してはおりませぬ。ただ、心では、私は殿をお裏切りしていたやもしれません」
真っすぐに自分を見つめてくる女から、嘉利は気まずげに眼を逸らす。
「―」
「それは、どういうことだ」
固い声、強ばった顔。
お亀は、その孤独の影をいっそう濃くした嘉利の顔を切なく見つめた。
「殿にあれほどまでにお情けをかけて頂きながら、私は―」
言いかけたお亀の言葉を嘉利が途中で遮った。
「いや、待て。もう、何も申すな。それ以上、言うでない。その続きを聞けば、俺はそなたを殺さねばならなくなる。俺は藤乃、そなたをこの手にかけたくはないのだ。判るであろう、俺はそなたに惚れている。幾ら畜生公と怖れられている俺でも、惚れた女は殺せぬ」
お亀は、ゆるりと首を振った。
「それゆえ、是非ともお聞き頂かねばなりませぬ。殿、どうか、私にお暇を下さりませ。これまで数ならぬ身にお優しさを賜り、心より感謝申し上げまする」
「それでは、まるで別れの科白のようではないか」
嘉利の声が、かすかに震えた。
「―お別れにございます。殿」
お亀の瞳が揺れた。
「教えてくれ。お亀、俺は、俺という人間は、そなたを不幸にしただけなのか。俺は、お前の身体をただ弄んだだけの、お前にとっては顔を見るのも厭な男なのか?」
振り絞るような男の声に、お亀の眼に涙が溢れた。
「いいえ、殿。私は、殿という御方にお逢いできて、幸せにございました。最初の頃は殿をお憎しみしたことがないと申せば、それは嘘になりましょう。さりながら、お側でお仕えする中に、殿のお優しさに触れることも叶いましてございます。私にとって、殿は大切なお方となりました」
「それなら、何故、そなたは俺の許を去る? 大切な存在になったと言いながら、何ゆえ、そなたは俺の傍からいなくなるのだ?」