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鈴~れい~・其の三

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 側室藤乃の方の寝所に夜半、男が忍び込んだ―その一件は翌朝、直ちに藩主嘉利に伝えられた。現実には、小五郎とお亀がいたのは庭であって、閨ではない。しかしながら、その場を唯一目撃した腰元の証言は、明らかに藤乃の方にとっては不利なものであった。
 真夜中、しかも藩主のお渡りがない日に限って、藩主の熱愛する側室が寝所で若い男と共に手を握り合っていたというのだから―。
 しかも、その証言によれば、藤乃の方と男は明らかに旧知の仲、つまり以前からの知り合いであり、それも相当に親密な間柄のように見えた。藤乃の方自身は曲者が突如として侵入してきたのだと言い張っているが、曲者といかにも仲睦まじげに手に手を取り合っているなど、誰がどう考えても不自然すぎる。
―このように申し上げては何でございますが、私には、あの男がふいに闖入してきたのだとは、どうしても思えませぬ。曲者にしては、お方さまとあの男の醸し出す雰囲気は、あまりにも自然でございましたから。私には、お二人があらかじめ示し合わせてあの場所で忍び逢っていたように見えました。
 このひと言が決定打となった。側室藤乃の方が夜半、怪しい男と密会!
 藩主の寵妾がよりにもよって寝所に男を引き入れ、忍び逢っていたというのは前代未聞の不祥事であった。それも、二人が乳繰り合っていたのは、藩主の居城の奥向きにおいてであった。
 その噂は、たちまちにして木檜城内にひろまり、最早、藩主たる嘉利でさえ、お亀を庇い切ることは難しくなりつつあった。 
お亀が夜半、男を閨に引き入れたと聞いた時、嘉利は全く取り合おうとしなかった。
「あれは、そのようなことのできる女子ではない」
 端から聞き入れる風もなかったのだが、その現場を見たという証言者―奥向きに仕える腰元が嘉利の御前で例の証言
―私には、お二人があらかじめ示し合わせてあの場所で忍び逢っていたように見えました。
 をしてからというもの、次第に嘉利の中に芽生えた疑惑が大きくなっていった。
 悪は千里を走るという。悪しき噂ほど早くに人々の知るところとなる。事が思いがけず大きくなり、嘉利としても知らぬ顔もできず、仕方なく事件の目撃者だという腰元を呼び出した。
 とにかく形式的だけにでも藩主自らが話を聞いておこうという軽い気持ちで行ったことが、すべての発端となった。腰元は目付や筆頭家老の前で既に何度も話したのと寸分違わぬ証言を繰り返し、それで間違いはないかと嘉利が念を押すと、平伏して
―一切間違いはございませぬ。
 と断言した。その口調には迷いも躊躇いも片々たりともなかった。腰元を呼び出して話を聞いたその日の夕刻、嘉利は一人で自室にいた。表御殿には藩主が政務を執る部屋の他に、その合間に寛ぐ御休息の間がある。その御休息の間で、嘉利は暗澹たる気分で庭を見ていた。
 しかも、逃げてゆく男の顔を一瞥したという城門警護の任に当たる武士が聞き捨てならぬことを言っていた。
 逃げていった男の身のこなしは、実に鮮やかで到底、並の者とは思えなかった。さながら忍びの者かと思うほどに、身軽で高い塀などもいともあっさりとひと跨ぎしてしまったという。
―あの者の顔に私、見憶えがございます。あの者は、確かに彼(か)の柳井道場の前道場主柳井小五郎どのにございます。
 その男の十一になる長男が、柳井道場に通っていたため、男は伜を連れて道場を訪れた際、幾度か柳井小五郎に逢って挨拶をしたことがあるという。
―恐らくは柳井小五郎先生に間違いはないかと存じまする。
 腰元同様、その男もまた嘉利の面前で確信に満ちた口調で言った。その言葉が、嘉利の心に降り積もった鬱憤に火を付けた。
 嘉利の部屋からも庭の紫陽花が見える。
 むろん、お亀の部屋から見るものとは別のものだ。
 水無月も下旬に入り、紫陽花の色はいっそう深まり、深い海色に染め上げられていた。花の色が変われば、人の心もまた変わる。げにうつろいやすいのは人の心。嘉利が誰よりも何よりも大切に思う女の心もまた、この花のようにうつろってしまったのだろうか。
―何故なんだ、何故。俺では駄目なんだ。皆、皆、俺の側からいなくなってゆく。俺を伯父子と呼び、蔑むような眼で見ていた父上。自分の後ろめたさを隠すように、俺を猫かわいがりした挙げ句、最後は放っぽり出ていった母上。皆、誰もが俺を一人残し、去ってゆくんだ。
 藤乃、お前だけは、違うと思っていた。お前となら生き直せる。生まれ変わって、もう一度新しい自分になれる気がしたのに。お前までもが俺を捨ててゆくのか。
 その男と、自害して果てた友の良人と二人でゆくというのか。
 何故だろう、藤乃。俺はお前と初めて逢った気がしないんだ。こんなことを言えば、本当の気違いだと思われてしまいそうだが、俺は生まれるずっと前から、お前を知っていたような気がする。まるで、お前自身の心が俺の一部であったような、俺自身がお前の心の一部であったような、妙な気がしてならない。
 俺たちは、もしかしたら、二人で一人の人間だったのかもしれない。こんなことを言えば、お前は呆れ、今度こそ愛想をつかしてしまうかもしれないな。だからこそ、俺はお前にこれほど惹かれたんだ。だけど、お前は俺を愛してはいない。
 俺はやっとめぐり逢えたと思った、たった一人の女にでさえ、こうやって裏切られる運命だったのだな。
 嘉利は、忍び寄る夕闇に沈んでゆく紫陽花をただ黙って眺めた。
 自分が誰かに、眼を奪われて言葉を失(な)くすことがあるなんて、思いだにしなかった、姿形と関わりなく、その精神のありように心が動かされることがあると、お亀と逢って嘉利は初めて知った。
―悪名高き残虐な藩主としてではなく、もっと優しさで人の心を、民を包み込むような藩主になってくれ。あなたは藩主、国の父ではないか。親であれば我が子たる領民を苦しめず、もっと慈しんでくれ。
 人には優しさというものがある。藩主たる嘉利は国の父、罪なき人々を傷つけ殺めることは止め、優しさで領民を父のように包み込んで欲しい。
 出逢った日、少女はひたむきな眼で訴えた。
 恐らく、初めて御前試合で出逢ったあの瞬間、嘉利はもうお亀に惹かれていたのだ。あの、強い意思を秘めた毅然とした瞳。誰もが怖れひれ伏す悪名高き藩主に刃を突きつけ、暗殺に失敗したかと思えば、自らの生命の危険も顧みず果敢に諫言を試みた。
 一見無謀とも思えるその行動の裏には、いかにもあの娘らしい優しさや困った者を見過ごしにできない正義感がある。少し眼を離しただけで、どこへ転がってゆくか判らない鞠のような、放っておけない娘だ。ずっと側にいて守ってやりたいと思っていたけれど、どうやら、お亀自身はそれを望んではいないらしい。
 いや、あの少女は元から誰かに守って貰うことなぞ、考えたこともないだろう。あの娘は他人から守って貰うより、自分の頭で考えて動き、自らの身だけでなく他人をも身を挺してまで守ろうとする、そんな娘だ。
作品名:鈴~れい~・其の三 作家名:東 めぐみ