鈴~れい~・其の三
「それは、訊きにくいことを言うようだが、愛するということではないのか」
燃えるような瞳が真っすぐに見つめていた。あまりに真摯な視線に、お亀は思わず受け止めきれず眼を逸らした。
「違います。自分でも上手くは言えないのですが、私は嘉利公を愛してはおりません。でも、とても大切な方だと思っています」
「愛してもおらぬ男と共に過ごして、そんな男の側妾となって、お亀どのは幸せなのか?」
沈黙が落ちる。重い、重い沈黙に押し潰されそうだ。小五郎の両手がお亀の細い肩を掴む。
「お亀どの。黙っていないで、応えてくれ。私から眼を逸らさずに、私を見てくれぬか」
おずおずと顔を上げ、視線を向けたお亀を小五郎は覗き込んだ。
「あなたが木檜城に一人で乗り込んだと聞いたときは、我が耳を疑った。今夜、ここに忍び入った私をお亀どのは無謀なことをしたと言うが、あなたがなそうとしたことは、こんなことより、はるかに危険だった。まかり間違えば、いや、藩主の気性を考えれば、御前試合の場であなたが暗殺に失敗した時、あの男に殺されていたとしても何の不思議はない」
そこで、小五郎は溜息をついた。
「藩主はあなたを殺さなかった。先刻も言ったが、あなたには辛いことだったろう。だが、あなたが生きていてくれたお陰で、私も漸く決心がついた」
小五郎の言葉に何か強い決意のようなものを感じ、お亀は思わず小五郎の顔を見た。
「小五郎さま?」
「私は、あなたを藩主から奪い返すつもりで今夜、ここまで来た」
小五郎は一度は口ごもりながらも、しばらくうつむき、やがて弾かれたように面を上げ意を決したように言う。
「無事に二人でここから逃げおおせたなら、一緒になって貰えませんか。私の妻として、私について来て欲しい」
「でも、私はもう、昔の私ではございません。小五郎さまがご存じの私ではないのです。こんな私では、小五郎さまのお側にいることは叶いませぬ」
嘉利と数え切れぬほどの夜を過ごし、この身体はもうさんざん穢れた身だ。殊に、心はともかく、お亀の身体は女を知り尽くした嘉利の愛撫に慣れ、その身体は抱かれることを歓んでさえいた。そんな自分が、小五郎の妻になることはできない。たとえ、お亀の心がどれほどそれを望んだとしても、だ。
そう、お亀が嘉利に烈しく愛されながら、ついに嘉利に愛を返せなかったその真の理由は、小五郎の存在であった。とうに諦めたつもりでも、心の片隅にこの男の面影が棲みついて離れなかったのだ。
「そのようなことはない。お亀どの、私は先刻、あなたの心を傷つけるようなことを申してしまったが、それは、あなたが―私より藩主をあの男を選んだという事実が認められず、醜い嫉妬をしてしまったからだ。あなたが私を嫌いでないというのなら、どうか私のこの気持ちを受け容れてくれまいか」
小五郎の言葉が、優しさが心に滲みる。
「私は、お亀どのがどのように過ごしてきたのかなど、一切気にはしない。今の、あるがままのお亀どのが好きだ。いや、ずっと、ずっと好きだった。もし、あなたも同じようにあの頃から私を見つめていてくれたのだと知っていたら、私は迷わずお香代ではなく、あなたを―」
「小五郎さま、そのお話は、もうお止め下さいませ。私は小五郎さまから、そのお話は聞きとうはございませぬ」
少女の頃から、ただ小五郎だけを見つめ、一途に慕っていたお香代が、あまりに哀れに思えた。初恋を実らせて幸せ一杯に輝いていたお香代。小五郎の妻となってからのお香代に逢うことはついになかったけれど、お香代から届く手紙には、若妻となったお香代の歓びが綴られていた。
あの幸せを、歓びを、今になって曇らせたくはない。お香代は良人に愛された幸せな妻として逝ったのだ。その時。部屋の方が俄に騒がしくなった。
「小五郎さま」
お亀と小五郎が一瞬、顔を見合わせた。
「お方さま、藤乃のお方さま?」
お付きの腰元が探しているようだ。
部屋を覗いたら、お亀の姿が見えぬので訝しく思ったのだろう。
「お方さま」
声が段々と近づいてくる。お亀は蒼褪めた。
「小五郎さま、これ以上ここにいらっしゃってはいけませぬ」
小五郎に緊張を漲らせた声で告げると、小五郎が首を振った。
「あなたも共に行きましょう。今、逃げなければ、一生後悔する。さあ、この手を取って」
小五郎の差し出した手を前に、お亀は躊躇った。今、ここで、この手を取らなければ、きっと一生後悔する。でも、あの人にちゃんと別れを告げてゆかなければ、自分はもっと後悔するだろう。〝側にいてくれ〟と懇願するように囁いたあの人を裏切るような真似だけはできない。
きちんと顔を見て、自分の口から別れを伝えるのだ。今はただ、それだけがあの人に示すことのできる精一杯の真心だから。
「小五郎さま、私は今はご一緒に行けません。私には、まだやり残したことがあります」
「―お亀どの」
小五郎が何か言いたげな眼でお亀を見た。
「私が今ここで黙って姿を消せば、今度こそ、あの人の心は壊れてしまう。あの人が完全に壊れてしまえば、ひいては困るのはこの木檜の人たちです。ただでさえ、哀しみと憎しみと淋しさに凝り固まり、凍りついてしまった嘉利公の脆い心をこれ以上傷つけてはならない。小五郎さま、今はまだ、行けません」
お亀は懐から二人の想い出の品を取り出した。
「小五郎さま、どうか、この手ぬぐいを。これを今は私とお思いになってお持ち下さいませ」
急いで小五郎の手に白い手ぬぐいを渡した時、腰元の悲鳴が響き渡った。
「お方さまっ。そなた、何者ぞ。藩主木檜嘉利公のご側室藤乃の方さまに狼藉を働くとは、無礼千万もはなはだしい」
腰元の尖った声がその場の張りつめた空気を震わせる。
「お方さまから手を放しなさい」
腰元が一喝するのとほぼ同時に、お亀は小五郎に眼顔で頷いて見せた。
―お願いでございます。今はご辛抱下さいませ。
「時が来れば、いずれ必ず」
お亀が放ったひと言を、小五郎は聞き逃さなかった。
薄闇の中、まなざしとまなざしが切なく絡み合う。
「あい判った、いずれまた、あいまみえよう」
小五郎は頷き、お亀から手渡された手ぬぐいを懐にねじ込んだ。次の瞬間には、ひらりと軽い身のこなしで紫陽花の茂みを飛び越えた。
「お方さまっ、お方さま。大事ございませぬか?」
腰元がまろぶように駆け寄ってくる。お亀はまだ若い腰元を安心させるかのように、微笑みを作った。
「お知り合い―にございますか? 何やら親しげにお言葉を交わされておいでになっていたようにございますが」
「大事ない、曲者が参ったが、そなたが参って他に人が来ては大事になると、大慌てで逃げていってしまいました」
何とかその場を取り繕うと、腰元は曖昧な表情で頷く。
「さようにございますか。御身がご無事でよろしうございました。殿のおん大切な方にもし何かあれば、この私の首が飛びまする」
最後のひと言は皮肉にも聞こえたけれど―、お亀は迂闊にも失念していた。
この木檜城の奥向きの女たちは、嘉利の寵愛を一身に受ける自分に対して、けして良い印象は抱いてはいないということを。