鈴~れい~・其の三
お亀さえ己れの心を偽り、嘉利に微笑みかけていれば、嘉利の心は穏やかになり、人を殺めることもない。生来の嘉利は英明な人物だ。けして愚鈍でも暗愚な君主でもない。お亀という存在を得て心の安定を取り戻せば、先代嘉倫以上の名君と謳われる良き藩主なるに違いない。
嘉利は嘘を言わない男だ。お亀が彼の傍にいれば、もう無益な殺生をしないと誓ったあの言葉に偽りはない。何より、あのときの嘉利の瞳は真摯で、ひとかけらの嘘もなかった。
お亀さえ何も口にしなければ。すべてが上手くゆく。大切な男をむざと破滅の道に追い込むこともなく、お亀もまたそれなりに穏やかで幸せな生涯を送れることだろう。藩主の側室としてや、嘉利の子の母としての栄耀栄華には少しも未練はなかったが、嘉利と二人で穏やかな日々を紡いでゆくのも悪くはないと思う自分も確かにいる。
だが、お亀は知っている。自分は絶対に、その穏やかな日々を手に入れることはない。お亀が嘉利の傍からいなくなる日はいずれ遠からず訪れるだろう。
もし懐妊しているのだとしても、お亀は嘉利の傍を去るつもりでいた。自分は嘉利を愛してはいないのだと、大切な存在だからこそ、もう自分の心を偽って一緒にはいられないのだと本当の気持ちを伝えるつもりだ。
恐らく、その時、お亀はただでは済まない。激怒した嘉利は今度こそ、お亀を殺すはずだ。
嘉利が怒っても無理はない。お亀はこの城に来てからふた月もの間、ずっと嘉利を欺き続けていたのだから―。最初は嘉利に抱かれることを厭がりながらも、次第に嘉利の愛撫に馴れ、閨の中では嘉利の腕に抱かれ、歓びの声を上げ身をのけぞらせていたのだ。
そんな女を嘉利が許しがたく思ったとしても、致し方のないことだ。嘉利に抱かれ、耳許で愛の言葉を囁かれながら、お亀は実は嘉利を男として愛してはいなかった。などと言えば、嘉利が男としての誇りを傷つけられたと思うのは当然だ。誇りを傷つけたお亀を、嘉利は容赦ない方法で殺すだろう。
それで良い。それこそが、お亀の望む終わりだった。嘉利に殺されるのであれば、お亀の死によって嘉利の怒りとやるせなさがわずかなりとも軽くなるのであれば、お亀はそれで良いと思う。
お亀が物想いに耽っていたその時、紫陽花の茂みがガサリと揺れた。最初は猫かと思った。この庭には、よく野良猫が迷い込む。
お亀も時には菓子などを与えるため、猫も心得たもので、思い出したように姿を見せる。
が、不自然な物音は続いた。
「何者?」
お亀は低いけれど、鋭い声で誰何した。
宵闇の中、月明かりに深く色づいた紫陽花の花がひそやかに浮かんでいる。
と、茂みの向こうから、低い声が響いた。
「お亀どの、私です。柳井小五郎にござる」
刹那、お亀の顔から瞬時に血の色が失せた。
―何故、何故に、小五郎さまがこのような場所に?
緑の茂みをかき分け、小五郎が姿を見せた。
以前見たときより、少し痩せたのか。
頬は少し肉が落ち、まだ少年の面影を残していた顔はいっそう精悍さを増し、彼を大人の男に見せていた。しかし、お亀にとっては、やっと逢えた懐かしさよりも、戸惑いと不安の方が大きかった。
「小五郎さま、どうして、このような場所に」
思わず胸の想いを訴えると、小五郎は薄く笑った。
「あなたのことが忘れられなくて、ここまで来たと言ったら、あなたは怒りますか?」
冗談など口にしたことのない男が、余裕の笑顔で笑っている。
お亀は何か心に不吉なものを憶え、庭に走り降りた。動転のあまり、裸足であることさえ頓着していなかった。
「どうして、このような無謀なことをなされました? ここは藩主のお住まいになる城中でございます。万が一、殿に見つかって囚われの身にでもなれば、小五郎さまは殺されてしまいます」
お亀が小五郎に縋るような眼を向けると、小五郎が小さく笑んだ。
「殿―、お亀どのは随分と藩主を親しげに呼ばれる。聞けば、藩主のひとかたならぬ寵愛を受けていると聞いていますが」
「―」
お亀は唇を噛みしめ、うつむいた。
小五郎の口から、そんな話は聞きたくはなかった。たとえ、それが身勝手な願いだとしても。
小五郎にとって、藩主嘉利は妻を辱め、死なせた憎んでも憎みきれぬ敵であり、柳井道場を閉めざるをえなくる原因を作った男だ。その男の側女となり、夜毎、男に抱かれる日々に甘んじているお亀を裏切り者と見なす方が自然だろう。
「済みません。何もあなたを責めているわけではないのです。畜生公とその冷酷さを怖れられているほどの男だ。もし、あなたが意に従わなければ、あの男はあなたを惨たらしく殺すだろう。私は、あなたに妻の二の舞を踏ませたくはない。あなたには、生きていて欲しい―たとえ、あなたがどのように苦しんでいるとしても、生きてさえいてくれればと思っています。私は、あなたまでをも失いたくはない。それは、あなたには酷な願いかもしれませんが」
小五郎が思いつめた口調で言うのに、お亀は首を振った。
「違うのです」
「―?」
自分を意外そうに見つめた小五郎に、お亀は夢中で言った。
「あの方は、殿―嘉利公は、世間が言うほどの非道なお方ではありません。それは確かに、あの方の重ねてきた行いは到底人として許されるものではありませぬ。さりながら、嘉利公は本当は情理を備えた英明なお方です。あの方にはあの方なりの苦しみがあって―」
「それで、すべてが許されるというのか? お亀どの、あの男にどのような事情があるのかは知らぬ。しかし、人には誰しもその人なりの事情ならあるものにござる。それを逃げ口上に、自らの欲望のままにふるまい、罪もなき百姓を快楽のためにのみ斬り、女を手込めにするは、ただの畜生にも劣ると存ずる。仮にも一国を統べる藩主たるもの、個人的な事情云々で政を投げ出し、あまつさえ女色に溺れ、罪なき人を殺す殺生を重ねるは甘えどころではない、許されぬ大罪だ」
小五郎の言葉は道理だ。お亀は何も言い返せず、また、うむついた。
「お亀どの、もしや、お亀どのは藩主を―」
〝愛してしまったのか〟と訊こうとしたのは判っていた。
お亀は小さくかぶりを振った。
「違います。私は―」
言いかけるお亀を小五郎は哀しげな眼で見つめる。
「あの男に惚れたというのであれば、お亀どのがそのように藩主を庇い立てするのも得心はゆく。このようなことを言うのは残酷かもしれぬが、女人とは膚を合わせていれば、その中に自ずと男への情を感じるようになるものだろう。それも一度ならず何度も共に過ごせば、お亀どのだとて例外ではあるまい」
「酷い―、小五郎さまは、私をそのような女だとお思いになられているのですか」
お亀の眼に大粒の涙が溢れた。それでは、あまりにも自分が哀れすぎる。お亀があれほどまでに嘉利に愛されながら、ついに最後まで嘉利を愛せなかったその理由。その理由は―。
「私は、小五郎さまが仰せのような意味で、嘉利公をお慕いいたしてはおりませぬ。ただ、あのお方は、お淋しいお身の上でいらせられます。あの方の孤独は深く、たとえ、あの方が犯した罪が小五郎さまの仰せのごとく、それを理由に許されるものではないとしても、あまりにお労しく思えるのです」