海のたより
──ユキノシタ──
わたしが生まれた地区は、坂道が多く、石垣の上に住宅が建っています。
苔むした石垣はじめじめして、すきまから赤手がに(このあたりでは「金時がに」という)がよく顔を出していたものです。
そして、初夏になると決まって、石垣はかわいらしい淡いピンク色のユキノシタの花に彩られました。
今では、石垣のほとんどがコンクリートに覆われて、赤手がにもすっかり姿を消してしまい、ユキノシタもあまり見かけなくなりましたが……。
実家の裏に井戸があって、近くには井戸の神さまをまつった小さな祠があります。その石垣のまわりにユキノシタが生えていました。
そばには戦争の時に使った防空壕がそのまま残っていて、薄気味が悪かったため、子どものころのわたしは、あまり近寄りませんでした。
ある冬の日のことです。夜、耳の中が鈍く痛みだしました。原因もわからないので、痛い方の耳を上にして眠りました。
ところが、真夜中、わたしは激しい痛みで飛び起きてしまいました。
耳ばかりか、顔の半分が痛いのです。もう寝てなんていられません。泣くほどの痛みなのです。
わたしのうめき声に起きてきた母は「みみくさ、あるかなー」といいながら、上着を羽織って外に出て行きました。
まもなく、小さな草を手にしてもどってきた母は、その草をすりつぶし、汁をわたしの耳の中に注ぎ込んだのです。
「冬だから葉っぱが小さくて、ちょっとしか汁が出なかった。足りるかな」と。
なにがなんだかわかりませんでしたが、その時のひんやりした感触は今でも覚えています。
ところが次の朝、目が覚めたときに痛みはすっかりひいていたのです。
念のため、耳鼻科のお医者さんにいったら、風邪からきた中耳炎だといわれましたが、母がつけてくれた汁のおかげで、だいぶよくなっていました。
どうやら痛い方の耳を上にして寝たために、みみだれが奥に入ってしまって、激しく痛んだようです。
母にきくと、『みみくさ』とは、ユキノシタのことだと教えてくれました。
少しもあわてずに処置してくれた母は、昔からの知恵を受け継いでいたのですね。
『みみくさ』は、その名に恥じず、力を発揮してくれたというわけです。