海のたより
──あんばさま──
今から数十年前のこと。
ある晩、漁業組合から「『あんばさま』があったので、明日の漁はお休みです」という放送がありました。
まだ小学校の中学年だったわたしは、その意味を父に尋ねました。すると、「漁師のストライキ」と言う返事がかえってきたのです。
そのときは「漁師独特のことばでおもしろい」という程度で納得していました。
ところが、最近になってエッセイのネタはないかと考えていたとき、ふと、そんなことばがあったことを思い出したのです。
調べてみると、昔、豊漁続きで休みなく働きづめだったとき、体力の限界を感じた乗組員が、漁に出たくないときに船主に対してした意志表示のサインで、船の煙突にカゴを被せたり、港口の灯台に万漁籠を被せたりしたということでした。
そして、これを船主が無視すると、帆を切られたり道具を捨てられたりして損害が出るので、船主が話し合って全船が休漁となったのだそうです。
今でこそ、第一と第三の土曜日は休漁日と決まっていますが、そのころは特に休みの日はなかったようです。
たしかにわたしが小学生の時には、鯖が豊漁で、水揚げ時の箱が足りず、どこの家でも『箱うち』といって、鯖をいれる木箱を家族総出の内職で作ったほどでしたので、あんばさまがおきても不思議はなかったと思います。
それにしても『あんばさま』という言葉の響きは、なにか信仰に関係があるのではないかと思ったのですが、調べを進めるうちに、やはりそうだということがわかりました。
『あんばさま』とは、茨城県稲敷郡桜川村に本宮のある大杉神社を阿波(あば)といったことからだと云われ、大杉神社は主に東北から関東にかけての漁業者に、特に信仰の篤い神様だそうです。
そして、いわき地方にも『あんばさまの船止め』という風習が数十年前まで存在していたといいます。
その風習は、漁業が最盛期のころ仕事が大変忙しく、乗組員は、盆と正月ぐらいしか休みがなかったので、どうしても漁を休みたい時は「あんばさま」の御神威にすがり、市場にゲンバ(魚を入れる樽)を積み重ね、船の櫓を置き即席で『あんばさま』を作り飾ったのだとか。
「神様」の威光をかりて、自分たちの休暇を確保したのは、どこも同じなのですね。
でも今は、『あんばさま』が行われるほどの大漁はもう期待できないようで、漁村も寂れる一方です。