夜明けの呼び鈴
半開きだった口が閉じ、焦点が合っていなかった目が、徐々に生気を取り戻して行くのがわかった。それはまるで、濁った水が一杯になったバスタブの栓が抜かれて、濁った水が減って行き、バスタブの中からおじいちゃんが現れた、そんな感じだった。私は驚いて思わず声を出した。
「おじいちゃん・・・」
おじいちゃんの目は、もうしっかりと私の目を見つめていた。
「香織、来てくれてありがとう。」
声には力がなかったが、ふにゃふにゃで聞き取りづらい声ではなかった。
「俺はもうずいぶん長く生きた。戦争からも生きて帰れたし、戦争から帰ってすぐに結核に罹ったけど、それも治った。それに、結核の療養所で佳代子に遭えた。」
そうか、おじいちゃんとおばあちゃんは結核の療養所で出逢ったんだ。初めて聞く話しだった。
「もう思い残すことはない。香織、おまえはまだ若くて元気だ。まだまだやらなきゃならないことがたくさんある。これからも頑張るんだよ。」
私はなぜだか声が出せなくなって、おじいちゃんの手をさすった。本当に、「枯木のような手」っていうのがあるんだって、初めて知った。
「香織に手をさすってもらうのも、これが最後かも知れない。もうおまえにおこづかいをあげられない。ごめんよ。」
「おこづかいなんて、どうでもいいよ。おじいちゃん、また元気になって。」
私はやっとそれだけ言った。
「思い残すことがあったとしたら、そうだな、またおまえに膝に乗ってもらいたかったよ。」
おじいちゃんはそう言って少しだけ笑った。
「おじいちゃん・・・」
私はおじいちゃんが久し振りにまともな反応を見せてくれて、嬉しくなった。
「私、もう重くておじいちゃんの膝には乗れないよ。」
次の言葉は、無意識のうちに私の口から発せられていた。
「ねえ、おじいちゃん。もうじき死ぬの?」
「うん、もうすぐだな。」
「もうすぐ死ぬっていうことを、どう感じるの?」
「そうだな、香織は陸上をやってたよね。生きるって言うことは例えば、トラックの長距離競技みたいなもんだけど、違っている点もあって、それはスタート地点とゴール地点が人それぞれ、ばらばらってことかな。」
「どういうこと?」
作品名:夜明けの呼び鈴 作家名:sirius2014