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真空管に灯る想い

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 妻子持ちの男は家庭を捨てるなんて出来ないし、負担がかかるのはいつの時代も女だけ。そんな下手な昼ドラマでも視聴率の上がりそうもない在り来たりな図式にしっかり嵌り込んでいる自分が滑稽に思えて、その前では相手への愛だとか相手からの愛だとかがやけに薄っぺらく感じて、未練とかやけとかの類いと化しているのかもしれないと思った。誰かを傷付けて得るものなんて、ろくでもない。そんなものに価値なんてない。誰かを傷付けるくらいならそんなものいらない。そう思った。だから、寂しいだとか選ばれなかっただとかの自分のプライドから多かれ少なかれ必ずくるくだらない未練以上の相手への呆れとか諦めとか嫌悪感を認めて、相手の細かい思い遣りの全てに気付かない振りをして、そういう風に自分の心を閉じて密かに別れる為の準備をしたのだ。そうでもしないと、恐ろしい程の嫉妬や醜い感情で押しつぶされてしまって到底やり切れなかったと思う。神経がおかしくなり、度々発狂しそうになり、生きている充実感までも奪われてしまいそうになり、何度も精神科に通った。慣れない薬を飲んでは卒倒して、二日酔いのようになって仕事も手につかないような事もあった。それまで、気合いと心意気だけで生きてきた美和子には堪えられない仕打ちだった。そんな美和子の様子を彩子はただ1人、側でじっと見つめていた。だから、別れると打ち明けた時も、なにも反対しなかったのだと思う。彩子は心優しい子だった。だから、それに甘えた形になっていたのかもしれない。お湯が沸騰する音が静かに聞こえた。随分と物思いに耽っていたらしく、いつの間にか、ヤカンから怒ったように湯気が沸き立っている。美和子はそのお湯でインスタントコーヒーを入れた。カップを置いたテーブルの端っこには彩子がメジャーを使って色々なものを計るのがブームだった小学生の頃に計ったテーブルの長さがボールペンで彫られていた。『縦66せんち 横120せんち』美和子はそれを指でなぞりながら口を尖らせた。今までした事、選んできた事に後悔なんてしてない。したって仕方ないじゃない。判断を頼れるのは、いつだって自分一人しかいなかったんだから。


 漂白されたように白い空の下、登校して来る生徒達に混じって、彩子は無関心を装いながら密かに辺りに目を配り極めてゆっくりとした歩調で歩く。・・今日はいないみたい。寂しいような、ほっとした気楽なような、残念なようなおかしな気持ちになる。小さく溜息をつくと、誕生日に買ってもらったばかりの音楽プレーヤーのイヤホンを耳に突っ込み再生ボタンを押す。聞き慣れたラブソング。又しても一気に気分が高揚してくる。ダメだ。こんなの聞いて自分の気持ちばかり勝手に盛り上がってしまったら暴走でもしてしまいそうで怖いし。彩子は急いで他の曲を探す。これでいいや。軽い感じのpop。どんな風にも取れる前向きな感じの歌詞。諦めなければ、明日は来る。とりあえずはいい感じ。気楽に行こう。考え過ぎずに。まるで呪文のように繰り返しながら、彩子は学校に向かって無機質な色で佇む辛気臭い校門を潜る。その頃になると、かなり曲に浸っていて乗り乗りで踊るようにして下駄箱で靴を脱いだ。散らばった靴を拾い集めて顔を上げると、不意に目の前を1人の男子が横切って、スムーズに靴を脱いで靴箱に入れて上履きを履いた。彩子の胸は高鳴った。
「お、おはようございますっ」なにか言わなきゃ。とりあえず挨拶だけでもしなきゃ。口からついて出たのはそんな言葉だった。どうして敬語? 同級生なのに。訳分からん。
 適度に体格のいいその男子は、分厚いマフラーを鼻の下まで巻いて、眠そうな目を瞬かせながら彩子を一瞥すると「おっす」と一言呟くように言って、彩子の横を間隔を置いてさっさと通り過ぎて行った。その一挙一動を目で追っている自分に気付き、我ながらなんかキモイなと恥ずかしくなる始末。でも、少しでも視界に入った事が嬉しくて、返事を返してもらえた事が嬉しくて、今日もなんだかんだときっと目で追うのだと思う自分。でも、やっぱり恥ずかしい。そんな事を延々と考えながら彩子は上履きを履いて教室に向かった。教室の扉を潜れば、他の男子と楽しそうに笑って話している彼がいて、同じクラスで良かったと思う瞬間。でも、表面には出さない。キモイとか思われるの嫌だし。なにより恥ずかしいもん。
「彩子おはよー」何人かの友達が話しかけながら席の周りに集まってきた。
「今日、数学抜き打ちあるらしいよ〜やば〜なんも勉強してない〜」とか言いつつ、みんなは塾でちゃっかり勉強しているのを彩子は知っているので、適当に相槌を打つ。うちは一人親でお金がないのと、ママの方針で塾には行かせてもらえない。本当は行きたいのに。彼が行っている同じところに行きたいのになぁ。ママのバカ。
「ねぇ、ねぇ、見て。今日も千谷君カッコいい〜」友達が男子を盗み見て騒ぐ。千谷君はクラス一の小顔のイケメン。女子の大半は千谷君のファンなのだ。彩子のお目当ての彼はその千谷君のグループの1人。何故か千谷君に一目置かれている存在。面倒臭そうに学級委員を勤めるミスのない博識ある彼。外見はパッとしないのかもしれないけれど、バスケ部に所属してそこそこの位置にいる彼。彩子はその物静かなくせに、話すと案外楽しくて、笑うと爽やかなその彼がずっと気になって仕方ないのだった。学級委員に自ら進んで立候補したのも彼と一緒にいたいが為。本当は頭も良くないし、ドジばっかで恰好悪いところばかり見られるから気まずいんだけど、それよりも彼と何らかの共通点ができるのが嬉しかったのだ。
「今、空いてる? これ、人数分ずつそれぞれコピーしといて」
 昼休み、彼はそっけなくそう言いながら彩子の顔を真っ直ぐに見つめて、机の上に何枚かのプリントを置いていった。お弁当を食べていた彩子は、見つめられた恥ずかしさに真っ赤になってもごもごと返事をしたが、彼はもう既に何処かに消えていた。友達が文句を言った。
「自分でやればいいじゃなーい。きっと男子とバスケしに行ってんだから。ねぇ、彩子」
「え、ううん。平気だよ。忙しいから、きっと他にやる事があるんだよ。いつもそうだもん」
作品名:真空管に灯る想い 作家名:ぬゑ