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近未来のある日

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 彼女の頭に、包帯がない。それどころか、本当にただ眠っていただけのようにさえ見えた……。
 病院特有の、消毒液の匂いが鼻につく。私の顔は涙でぬれていた。ベッドも。そして私の手は、動かない妻の手を握っていた。
 ひどい吐き気と、嫌悪感が私をおそう。すべて夢だった。いや、すべて夢なら良かったと思う。私の喜びだけが、それだけが夢だった。
 私はおもむろに、そばの机にあった果物ナイフに手を伸ばし、妻の手の甲に、それをあてがった。少し力を入れるだけで、そのナイフは彼女の手から、血を溢れさせた。彼女は生きている。だが動かない。どんどん切り込みを深くしていく。片手の指が入るほどの切れ込みを入れ、ナイフを床に落とす。そこに手をねじ込み、一枚のチップを取り出した。妻の記憶の全てが、私の手の中にはあった。
 それを持ったまま、血なまぐさくなってしまった病室を出る。床には点々と、私の指から滴った血が垂れていた。外には、ロボットが姿勢のよく椅子に座っていた。
「このチップのデータをお前にコピーしろ」
 冷たい声で言う。
 手の中のチップを、彼女に向って差し出したが、彼女はそれを無言で数秒見つめ、視線を私に戻した。
「それは禁止されている命令コードです。実行すると、製品に支障が出る可能性があります。具体的には、入力された人間の感情が一部混乱するなどです」
 知っている。昔、同じように人間の記憶をロボットに写したところ、食事をするたびに泣き出す。という不可解な事態が起こったことがあるらしい。これは、おいしいという感情が、悲しいという感情と入れかわってしまっていたことにより起こったらしい。
 それでも私は迷わなかった。たとえ少しおかしなとこがあったとしても、妻が戻ってきてくれるならそれでよかった。
「わかっている。チップを読み込み、私の妻になれ」
 再度告げると、彼女はチップを手に取ると、両手でそれを胸元に押し当て、目を閉じた。
作品名:近未来のある日 作家名:浪戸 光