ロッキーと、トムのはなし
あの時、きっと母も泣きたかったに違いないと今は思う。料理はきちんとしたものを作ってくれる母であったのに、その日の夕飯は素麺だけであった。わたしと姉は食卓についたが食べる気になれず、のろのろと箸をつけるふりをして、下ばかり向いていた。
「おいしいよ、ほーら」
言いながら母は素麺を啜った。グラスにはいつもの習慣でビールが注いであったが、母は飲もうとはしなかった。外からロッキーの咳が聞こえた。わたしと姉はそれを聞いてまたぐずぐずと泣いた。
突然母が立ちあがって食卓から離れた。広い家ではなかったので、寝室あたりでごそごそやっている事はわかったが、やがて白い封筒を手にして戻ってきた。
「病院、いこうか」
母はお金が入っているらしい封筒の中身を確認し、財布の中身も確認してエプロンを外した。姉とわたしは稲妻に打たれたように立ち上がり、ロッキーの元へ飛び出して行ったのを憶えている。あの封筒に入っていたお金は何に使うものだったのだろう。いずれにしてもロッキーの病院代に使うものでなかったことは明らかだ。
動物病院に車で向かう間、母も姉も何もしゃべらなかった。ロッキーの咳き込む音だけが延々と車内に響いていた。
車で1時間位行ったところにようやく看板が見えた。病院につくと母は、車で待っていなさい、といって院内に駆けこんでいった。小さな病院だった。中から白衣を着た男の先生と、ナース服の女性が一人、走って出てきた。
「名前は?ロッキーちゃんですね、ごめんね」
先生はそう言ってロッキーを抱えあげた。これで安心だ、とそのときわたしは思った。この先生がロッキーの病気を治してくれるに違いない。そう信じて疑わなかった。
「フィラリアです」
先生はレントゲン写真を見せながら嶮しい表情で言った。そこで初めてその病気を知った。
「かなり酷い。知らない人は多いんです。蚊から感染する寄生虫で、予防の薬はあるんだけど」
「その薬で助からないんですか」と母。
「予防用なんで、寄生されたら効かないんです。幼虫を殺す薬だから成虫には」
先生は写真の真ん中に映っている細い糸がぐるぐると敷き詰められたような固まりを示し、
「これ、ロッキーちゃんの心臓です。この糸みたいなのが全部フィラリアの成虫。咳してたでしょ?肺もやられています」
気の毒そうに首をすくめた。
「手術は?」
思わず言った。姉も頷いた。母が困ったような目でわたしと姉を見た。構わず聞いた。
「手術でなおらないんですか」
「治ることもあるんだけど、ロッキーちゃんは……」
「どうして」
わたしは涙声だった。
「成虫がかなり増えてるから。ロッキーちゃんは高齢だからね、手術に耐えられない。手術の途中で死んでしまう」
「……」
姉が両手で顔を覆った。
「とにかく、腹水がたまって呼吸が辛そうだから、腹水だけでも抜いておこう。既に危篤状態だけど、少しは楽になるように」
先生は銀色の太いストローのようなものを取り出し、それをロッキーの脇腹にあてがった。ナース服の女性が洗面器を持ってストローの口の下で待機した。先生が力を入れてストローをロッキーのお腹に刺したのが分かった。「ぐっ」と人間のように声を上げて、ロッキーの体が少し震えた。ストローからは黄色いような茶色いような液体がビュウビュウとすごい勢いで流れ出し、母と姉とわたしは固唾をのんでその衝撃の光景を見守った。
流れ出す水に比例して、ロッキーの腹はどんどん萎んでいった。ようやく違和感のない腹の膨らみになったころ、水は止まった。
「入院させてもいいんだけど、かなり危険な状態だから。おうちで見守ってあげたほうがいいと思います」
と言う先生の言葉を受けて、そのままロッキーを姉と抱えた。ロッキーの体は出掛けより随分軽くなっていった。
家に帰った時、食欲はまったくなかった。母も姉も同じ気持ちだったと思う。フィラリアという病気を知ったショックと、フィラリアの形体、ロッキーの腹から出てきた腹水の色。細い糸のような素麺も、泡の消えてしまったビールの色も、さっきみた光景を連想させる。その日からしばらく暑い日が続いたけれど、ずいぶん長いこと食卓に素麺が上がることは無かったし、母はその日以来ビールを飲まなかった。
次の日は土曜日だった。母は仕事が休みだった。わたしと姉は泣きながらもいつもどおり学校へ向かった。両親は厳しい人たちだった。人間ならともかく、犬の危篤で学校を休むなんてことは許されなかったのではなかったか。
「ロッキーにはお母さんがついているから、行っておいで」
そう言われてしぶしぶ出かけた気がする。3時間だけの授業を嫌々受けて(当時の土曜日はそうであった)終わるとすっ飛んで家に帰った。
その時にはもう、ロッキーは死んでいた。わたしが帰るまでもたなかった。それを思い出す。
よたよたとふらつきながら今にも死にそうな顔をした生気の無いトムを見ていると、あの頃のことが鮮明に思いだされる。もしやフィラリアではないかと思い、しばらく様子を見ていたけれど、トムは一度も咳き込んだりはしなかった。飼い主がきちんとしていたのだろう。
1996年生まれのトムは今年で16歳。犬にしてはかなり高齢なはずである。フィラリアよりも歳をとりすぎたことが原因で別の病気にかかっている可能性も十分ある。
ロッキーは……わたしの記憶では、おそらく6歳ぐらいだっただろうから、わたしがまだ幼いころに我が家へやってきたことは間違いないが、
―あいつは随分若いうちに死んだんだな―
改めて思った。トムをロッキーと重ねていたから、出来る事ならずっとそばに付き添っていたいと思ったけれど、わたしはすでに非情な大人へと成長している。つまり、生活を第一に考えるようになったという事だ。あの頃とは違うものにしばられて、わたしはトムを見守ることを諦めた。つまりどういう事かと言うと、アルバイトの時間が迫っているのである。学生であるわたしは夕方の五時から22時まで、近所のスーパーで働いていた。タイムリミットが近づいて来る。
「トム、わたし仕事行かなきゃだよ。ごめん」
頭を撫でるとトムは目を瞑った。その顔を確認し、わたしは仕事に向かった。
―あの頃と同じだ―
何となく思った。
バイトが終わった帰り道にトムの様子を見に行った。もしかするともう駄目かもしれないと思いつつ冷静だったのは、やはり大人になってしまったからだろうか。子供の頃と比べて動物の死も人間の死も、嫌でも見る機会は多くなった。
街灯の少ない暗い道を抜けてトムの小屋にフェンス越しに近づき、名前を呼んでみた。
「トム、居る?なぁトム」
「……どちらさんですかね?」
暗がりで小屋の前しゃがんでいたので気づかなかったが、立ち上がって返事をしたのは年配の男性、声でわかった。おそらく飼い主だろう。
「あの、わたしは」
「はい」
「トムの具合を」
「ああ」
男性はすべて分かった、と言う風につぶやいた。
「様子、おかしかったですか」
「……はい」
「歳でね、ガンが出来とったんです。手術は無理で」
「……」
「夕方、出かけちょる間に死んで」
「……」
「かわいがってくれとったですか」
作品名:ロッキーと、トムのはなし 作家名:仲 秋二