ロッキーと、トムのはなし
男性は悲しいとも嬉しいともつかないようなしゃがれた声で訊いた。
「道を通るときに、少し……」
「はあ、色んな人によう(良く)してもらって」
「……」
「なごう(長く)生きましたよ、あれは」
「いま、トムは?」
今度はわたしが訊いた。
「夕方火葬しました。どうも出来んし、今はそういうところ多いから」
「そうですか」
わたしは男性に頭を下げてその場を離れた。トムの小屋はいずれなくなるのだろうと思った。
帰り道、わたしはロッキーの最後を思い返していた。確か父が亡骸とスコップを抱えて、夜中庭のレモンの木の下に埋めたはずである。思えばあれはあの時代、田舎だったから出来たことだ。今ならば厳しいかもしれない。
ペットが人間のように火葬されるようになったのは、行き過ぎた愛情を注ぐ飼い主の要望に応えた結果もあるだろう。けれど異臭もしくは死体から発生する病気を防ぐ対処としての名目が本当かもしれない。今や勝手に亡骸を埋めて、墓を作れるような場所は少なくなった。都会ならば尚更だ。
埋められたロッキーの死体からは幸い病気が発生する事は無かった。父が随分と頑張って深い穴を掘ったおかげかどうか、異臭騒ぎになることもなかった。ロッキーの体は微生物に食べられて分解されて、レモンの木の養分になっただろうか。全て想像であるが、わたしにはこれが自然なことのように思えた。トムは火葬された。動物にとってどちらが幸せなのかは分からない。どちらが幸せなのか、と考えること自体、人間の勝手な想像でもある。
飼ってもいない、よその飼い犬に愛着を持ったわたしは、まさに”勝手な人間”の象徴かもしれない。だけどそれが人間と言うものだ、と自分をなぐさめるために呟いてみる。わたしはこの世に居ないトムを思って、まだしばらくは泣く事だろう。
実家のレモンの木はまだ枯れる様子はない。今やロッキーの墓標だ。けれどそこに花を供えたりはしていない。実がなれば食べる。そしてそのたびにロッキーへ対する罪悪感が顔を出す。とはいえ歳を重ねるごとに、少しずつ悲しみは薄れていっている。
だからトムへの気持ちも、いつかそうなる。
作品名:ロッキーと、トムのはなし 作家名:仲 秋二