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ロッキーと、トムのはなし

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トムが死んだ。
 車通りの多い道路沿いで、フェンスを隔てて飼われている近所の犬であった。
 柴犬系の雑種で毛の色は茶色、小顔で素朴な顔立ちをしていた。
 犬小屋に「トム・1996年7月1日生まれ・オス」と丁寧に書かれてあったので、買い物に行くたびに名前を呼んで低い腰ほどのフェンスの上からトムの頭を撫でていた。頭のいい犬で、わたしの顔だか匂いだかをすぐに憶えて、よくなついていた……そう感じたのはかわいがっていた故の贔屓目(ひいきめ)かもしれないが、少なくともトムは犬好きな人間の見分けくらいはついていただろう。
 トムはたくさんの道行く人から気まぐれにかわいがられていた。わたしもその気まぐれな人間のうちの一人にすぎない。正直、トムを飼っている家の”人間の方”とは付き合いがなかった。
 ある日の買い物の帰り、トムが犬小屋から顔を出してわたしをじっとみていた。何だか様子がおかしいと思い近づいてみると、おかしな感じに腰を曲げ、よたよたとした足取りでわたしの元へ歩いてきた。少し苦しそうに息を荒くし、時折痛みに駆られたかのように、ふらつきながらも控えめに暴れた。
「トム、どうしたトム」
 わたしは言いながらトムの顔をじっと見た。改めて見るとトムは昔と比べ、随分歳をとっている。体は窶れ、目ヤニは垂れ流し状態で、毛並みのあちらこちらに白い毛が見え隠れしていた。わたしが今の家に住み始めてから3年ほど……トムに愛着を持って接してきたのはその頃からの習慣ということになる。しょっちゅう顔を見ていれば確かに変化に気付きにくいものかもしれないが、急激に老けこんだその様子にショックを受けた。
「どこか痛いか、お腹か?トム、トム」
 トムの頭を撫でながら、何度もトムの飼い主を呼ぼうかと家の入口に目を走らせた。部屋は暗い。誰かが中に居る様子はない。それでもインターフォンを押してみた。誰も出てこない。わたしはトムの前に座った。
 トムは明らかに苦しんでいる様子だった。普段はじわじわとした痛み、しかし時折激痛が走るようなしぐさをして見せる。腰をおかしな具合に曲げている姿勢からして、腹痛かもしれない。しかし実際はどうだったかわからない。
 もともと病気だったのか、それとも急に痛みだしたのか。
 わたしは右手を伸ばしてトムの鼻先を撫でた。すると苦しそうに、それでも嬉しそうにトムは懐っこく鼻先をすり寄せた。そして体を少し震わせ、またよたよたと不自然に少し暴れた。もしかするとトムはこのまま死ぬかもしれない。不意にそう思えた。
 突然涙がでた。
 おもえば自分が飼っているわけでもない人様の犬に対して、ずいぶん勝手な思い入れを持ったものである。けれど人間と云うのはそんなものだ。わたしはトムをかわいがっているつもりであったが、トムを通して子供のころに飼っていた犬のことをよく思いだしていた。その犬にトムを重ねていたかもしれない。
 あの犬はロッキーと言う名前だった。当時流行っていた映画の主人公の名前から取って父がつけた。わたしにはまだ犬に名前をつけるほどの知恵が授かっていない時分である。物ごころついたころから、ロッキーと言う名でわたしの家族の一員としてその犬は居た。九州の片田舎で育てられたロッキーが幸せだったかどうか、わたしには分からない。
 ロッキーはわたしが小学3年生の頃、フィラリアで死んだ。今のようにペットブームが世の中を騒がせていなかった時代である。当時、犬の扱いは今よりもずっと杜撰であった。ロッキーは雑種の中型犬であったが、間違っても家の中に入れられる事はなかった。餌はドッグフードではなく残飯であった。特にわたしの住んでいた地方は田舎であったから(かどうかは分からないが)少なくともわたしの住んでいた町ではそれが当たり前だった。犬を飼うにあたり勉強するという概念もないのが普通だった。勿論犬にお金をかける家庭もないことはなかった。しかしそれはお金に余裕のある家のみの話だったはずである。わたしの家は当時、決して裕福ではなかった。父と母は、二つ離れた姉と、わたしを育てる事で精一杯いだったに違いない。インターネットも今のように普及していなかった。もはや時代が違ったと言っていい。当時の人間に今の知識を求めるのは酷だろう。
 ロッキーは夏になるとおかしな咳をしはじめる。冬毛が抜けてそれを飲み込んだためだろうと、家族で雑草を与えていた。テレビで得た知識でそれだけは知っていた。あの頃の情報源の大半はどの家でも大抵テレビだった。ロッキーは草を食べて毛を吐いた。それを見て、やっぱり毛を飲み込んでいたんだと思った。おもえば暢気なものである。けれど動物病院につれていこうという考えはまず浮かばなかった。両親はどうだったか知らないが、保険の利かない動物病院に犬をつれていく事は、あの頃の二人には厳しかっただろう。田舎だったので動物病院自体が近くになかった事も理由にあるかもしれない。歳を重ねるたびにロッキーの咳はひどくなっていったが、それは歳のせいだろうと思い込んでいた。
 小学3年の夏、ロッキーの体に異変が現れた。食欲がなくなり、体がどんどんやつれていった。そのくせ腹だけが妙に膨らみ始め、腹の丸みで立ち上がれないのである。
「ロッキー、おかしいよ」
 わたしは不安を両親に訴えた。ロッキーの異様な姿を目の当たりにし、さすがに母親も青い顔をしていた。
「とにかく、学校に行きなさい」
 泣き顔の姉とわたしを窘め、母は父と目を合わせて頷き合った。その時両親の間でどんなやりとりが行なわれたものか。
「もう寿命だ」
 と、父が言った。わたしと姉は声を上げて泣いたが、非情にも両親はそのまま仕事に出かけた。わたしと姉はしばらくロッキーの前で泣いていた。けれど頭の片隅で学校に行かねばと考えていた。
「行こう」
 姉が涙を拭ってわたしに言った。
「うん……」
 姉とわたしは泣きながら手をつないで学校に向かった。その日一日、授業のときも給食のときも、わたしは上の空だった。きっと姉もそうだったろう。一日がとてつもなく長く感じた。
 ようやく学校が終わって走って家に帰ると、先に姉が帰って来ていた。二人でロッキーの前にしゃがみ込んで何度もロッキーの名前を呼んだ。ロッキーは苦しそうに息を吐きながら、時々わたしたちの顔をちらりと見上げた。
「おかあさん、遅いね」
「うん」
 姉とぽつぽつ話をしながら、じわっと浮かんでくる涙を必死でこらえた。姉はロッキーの頭を静かになでていた。わたしはそれを見ていた。
 二時間ばかり座っていたと思う。18時を過ぎてようやく母が帰って来た。
「あんたたち、いつからそうしてたの」
 母は困ったように眉をしかめた。
「お父さん、おそいの」
 姉が訊いた。当時父の言葉は絶対であったから、父をなんとか説得してロッキーを病院に連れて行こうと考えたのだろう。
「おとうさん、残業。8時過ぎまで帰って来ないと思う。だから先に晩ごはんたべよう」
 無理に明るい声を出して母は笑った。姉とわたしは絶望し、声をあげて泣いた。ロッキーを病院につれていけない事を悟ったのである。泣きながら母親に引っ張られて家に入り、夕飯の手伝いもせずにただ泣いていた。
「泣いても仕方ないよ。ご飯食べなさい」