僕の村は釣り日和8~鬼女沢
又吉じいさんがボソッとつぶやいた。
何度か巻いては引き出され、引き出されては巻いてを繰り返すと魚は寄ってきた。40センチをはるかに超える大きなイワナだ。皆瀬さんは渓流ダモ(網)を手に取ると、素早くイワナをすくい上げた。
「いやー、主には及ばないまでも、立派な大イワナだ」
皆瀬さんが東海林君を誉め讃える。しかし、東海林君の顔は晴れやかではない。
「くくく、そのくらいのイワナならゴロゴロいるぜ。珍しくはねえ」
又吉じいさんは意地悪そうに笑った。東海林君がにらみ返す。
「どうせ釣れねえけどな」
そう前置きして、又吉じいさんが言った。
「釜の主は朝マズメと夕マズメにしか姿を現さないのよ」
マズメとは魚の最も食いが立つ時間帯のことで、早朝と夕方を指す。
それでもあきらめ切れないのか、東海林君は黙々とミノーを投げ続けた。
僕も重めのスプーンを使って、滝壺を這うようにリールを巻く。
ふと、滝の上に目をやった。するとそこには、あのモヒカン猿がいたのである。まるで、僕たちの釣りを見守るかのようにして、ジッと見つめていたのだ。
(やはり、あの猿は東海林君の……)
そんな思いがしてならない。モヒカン猿の視線は僕よりも、東海林君に注がれているような気がしたからだ。
結局、その日は釜の主は姿を現さなかった。夕マズメまで狙うには、ここはあまりに遠すぎる。林道の終点に自転車を置いてきた僕たちは、暗くなる前に切り上げなければならない。
「また、絶対に来ますよ」
東海林君が又吉じいさんをにらんで言った。
「ああ、もう来なくていいぞ」
又吉じいさんは手で追い払うような仕草をして笑った。東海林君が下唇を噛んだ。
下山した僕たちは、また川を下り始めた。東海林君は何もしゃべらない。既に陽は傾きかけていた。山の夕暮れは早い。自然と急ぎ足になる。
そんな時、ふいに僕たちの前に、あのモヒカン猿が現れた。
モヒカン猿はジッと東海林君を見つめる。威嚇するわけでもなく、ただジッと見つめているのである。
この時、僕は思った。この二人の間には、二人にしかわからない、空気の糸のようなもので結ばれているのだろうと。
見つめ合っていたのは、一、二分くらいだったと思う。だが、その時間の濃さはまるで、農場のしぼりたての牛乳のようだった。それだけ凝縮された濃密な時間だったと僕には感じられた。
作品名:僕の村は釣り日和8~鬼女沢 作家名:栗原 峰幸