ありがとう
「すみません、一応ここに一人居ますが、僕も閉じ込められてるみたいで、出口を探しているところです。あなたは大丈夫ですか?」
「いやそれがわからんのだ。なんだか下半身の感覚が無い」
「そうですか。そこから動くことはできますか?」
「いや、この左腕しか動かせない。キミ、この手を引っ張ってみてくれんか」
男性の声はかなり苦しそうで、僕はそのとき置かれている状況よりもその事が怖かった。それでも僕はその手を力を込めて引いてみた。
あまり自由もきかないので大きな動きは出来ないが、それでも男性の上半身の向きが変って状況が少し見えた。どうやら腰の辺りに何かが乗っていて身動きが取れないらしい。先ほどの下半身の感覚が無いという言葉と合わせると状況はあまり良くないのでは? と思った。
「すみません、これ以上は動かせません。誰か助けを探してみます」
僕はそう言って足の方向へ這って行った。
もと居た場所まで戻って、更に後ろ向きに這ってゆく。しかし、進む方向が見えないため直ぐに行き止まりになってしまった。
――いつの間にか眠ってしまったようだ。
腕時計が狂っていなければ、寝ていたのは四時間ほどだった。しかし、意識が起きていようと眠っていようとあまり差が有るようには思えなかった。
又、あの男性のところに行って弱って行くのを見るのも気が進まなかったのだ。
僕はうつ伏せのまま重ねた両手の上に顎を乗せて小学校の頃を思い出していた。
小学三年生の時の担任は若くてきれいでやさしい女の先生だった。先生の教え方が上手だったかどうかはわからない。けれど僕達は皆その先生が好きだったので、気に入られたい僕達は先生の言う事は良く聞いた。
「ありがとう、言われるように言うように」
だから、会社の教育でありがとうございますの言い方を指導されたときから先生の好きだった言葉をよく思い出す様になった。そして、今の僕はそんな風には生きていないという事も考えさせられたわけだ。
僕はもしかしたらもうこのまま助からないかもしれないけど、もう一度あの男性のところまで行って、せめて声を掛けて励ましてあげようと思った。