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無効力恋愛

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矢は直進して理人の喉元にまで届いた。
実際には、十貴は十数メートルほど疾走したに過ぎず、すぐ減速していたのだけれど。無意識のうちに手が、自分の口元を塞いでいた。
理人は十貴のことならなんだって知っていた。まだ、たかだか十五年しかない人生の、その半分近くを一緒に過ごした。今更、なにかを改めて言うこともない、友人だった。何が好きでどんな顔をするのか、何に怒りどんな風に泣くのか。走り始めたのも一緒だ。一緒に部活をして、自主トレをして。理人は、十貴がどんどん速くなったのを知っていた。十貴が走ることが好きなもを知っていた。走る姿が綺麗なことを知っていた。
 スタートラインの上で、十貴は前を見ている。
前。目前のコース一〇〇メートル。集中力が高まっているのは、見ていれば判った。
 十貴。
一人で走る十貴。綺麗な十貴。
どうして今、こんなにも鮮やかに映るのか。
周りの景色が霞むほどに、彼だけがはっきりと見える。顔の造作も、佇まいも、嫌と言うほど見知ったものだ、知らないことなどない。それなのに、初めて会った未知の生物のようにさえ、感じられた。
改めて真っ向から眺める、十貴の眼は、ひたむきな力と、真摯な祈りを湛えた、挑む者の眸だった。その永遠を測るような眼差しは、他人の干渉を拒んでいるかのように、理人には見えた。もう「走る」ことしか意識にないに違いないに違いない。それは至極当然のことだ。余計な思考は邪魔になる。
ずっと一緒にいたと思っていた。けれど、本当はこんなに遠い。理人は外側から眺めているだけで、走る十貴のなかには入れない。そんな当然のことに改めて気が付つかされる。そんなことは判りきっている筈のことだというのに、何故、殊更それが鳩尾を締め付けるのか。
決勝戦だ。ここに来るまでの努力も、負けた時の悔し涙も理人は見ていた。だから、頑張れと祈る気持ちは心からのものだった。
―――君の中に僕はいますか。
なんて、
そんなことを、どうして今考える。
十貴が自由に走れればいい。なのに。
血の巡る音がする。胸に針で空けた様な穴がある。チクチクと幽かに痛んだ。こんな自分はおかしい。
二律背反(アンビヴァレント)な痛みは、切なさに似ていた。

不意に十貴が視線を横に流した。一人挟んだ第四レーンに、去年の試合で十貴に勝った少年がいる。ゼッケンは八番。二人の予選タイムは僅差だった。
理人の視界で、少年が何か話しかけ、十貴がそれに応えた。
それは至極当然のこと。

 だからこんな気持ちになる自分はおかしい。
 
天高くホイッスルが鳴った。
アナウンスが練習走行の終了を告げる。
「ぶっさん、ぶっさん! カメラ! カメラ!」
 動かない理人に業を煮やした友人が、応援席から怒鳴りつけたので、理人は漸く我に返った。他校の新聞部や連盟のカメラマンに混ざって、不慣れな手付きで撮影のセッティングをする。うまく指がうごかない。また先が白くなるほど握り締めていたからだ。
 なんとか教えられた通りに体裁を整え、レンズを覗いてみる。
 ファインダー越しに見える世界は、自分の眼だけを使って見るそれより、自立していた。
 裸眼で見る世界は、否応無しに自分を含めた全体そのもののカオスだったが、レンズで視界を限定すると、「そこ」と「ここ」が分離する。それぞれが独立した固体同士の関係だと感じられ、何故だか、理人は少し落ち着いた。
 試しに二枚ほど撮ってみる。大丈夫だ。相変わらず心臓の音はうるさかったが、身体と心にあった、妙なこわばりは消えた。
 場内アナウンスが流れる。いよいよ最終レース本番。男子一〇〇メートル走、決勝戦。
 理人は、もう一度自分の眼で十貴を見た。
―――位置について。
 十貴は前を見ていた。その風を測るような眼差しを、理人は忘れないだろうと思った。
―――ヨォーイ、
スターターの声が響く。緊張感が頂点に達した。
破裂音と共に一斉にスタート。
張り詰めていた空気が流れ出す。理人は必死でシャッターを押した。前半は接戦だ。誰一人退かず横一列で進んでいたが、徐々に差が開いてきた。後半五十メートル、先頭集団のなかに十貴はいる。長い脚で距離を蹴り出す。三人、二人、―――八番と二十九番の一騎打ち。見えない糸に引かれるように、二十九番が前に出た。

十貴は眸の中に風を飼っている。
そして十貴は走って光に溶けた。そのままそれきり帰ってこない―――真剣に、そう思った。
永遠のような十一秒四二。

 細い身体にゴールテープが絡んだ。
前のめりの身体が下をむく。顔が天を仰ぐ。表情が解ける。四肢から力が抜け、慣性で腕が振り子のように揺れた。理人の眼には全てがスローモーションのように映った。大きく吸い込んだ酸素が十貴の胸郭を持ち上げる。
―――一着、ゼッケン二十九番、白宮十貴 
肩で息をしながら、二着のゼッケン八番が十貴に歩み寄る。二人は顔の前で軽く掌を合わせた。そのまま八番が十貴の手首を取り、腕を掲げて見せた。わっと辺りが沸いた。いつの間にかスタンドから降りてきた部員や、監督が十貴を囲んでいる。
十貴は少し照れくさそうにはにかみ、少し離れた場所からそれを見ている理人に気付いた。
理人はカメラを持ったまま、惚けたようにその場から動けずにいた。一事が万事この調子だ。
十貴が勝ったのだ。おめでとうを言わなけりゃ。そう思って理人が動き出そうとしたとき、
「英(エイ)―――!」
 ただ囲まれた状態から逃げるためかもしれない。
十貴は掴まれていた腕をほどき、まっすぐ理人に向かって駆けてきた。
 十貴が何を言ったのかは聞こえなかった。
 だが次の瞬間には、理人の首根に、十貴の腕が巻きついていた。


   5/


部屋はいつの間にか、薄暗い。
差し込む西日は、理人の右頬を熱く、茜に染めたが、部屋の隅々にまで行き届く力はないようだ。
理人の家は、十貴の家から五分と掛からない、川沿いの集合住宅だ。締め切られていた家の中には熱気が籠もっていた。両親は共働きで帰りが遅く、兄弟はいない。
普段なら居間の換気くらいはする。だがこの日、理人は帰宅して即、玄関横の自室に引き籠もり、ただベッドに転がっていた。精神的疲労が酷い。
――得意分野でしょうから――
 安達の声が脳裏に蘇る。馬鹿みたいに動揺した。余計なことをして、掘った墓穴に落ちるのは自分だというのに。それから、十貴だ。
 一体。
 一体、どこまで。
 理人は深くため息をついた。
子供の頃から使っているベッドは、今や、理人の身丈には小さく、足がはみ出してしまう。身動きするたび軋むスプリングの下には、浅い引き出しが付いていた。中には、雑誌や古い教科書が無造作に入れてあるが、その陰に隠すようにして、紙袋が一つ、仕舞ってあった。
中に入っているのは、写真だ。
いつも、これを引っ張り出すときは、見たくないものを確認する気持ちになる。
印画紙の中、時は二年前のあの日のままで止まっている。理人の手の中に、二位に身体一つ分以上の差をつけ、ゴールテープを切る寸前の十貴がいた。
作品名:無効力恋愛 作家名:こまこ