無効力恋愛
「いざ無理だったらそれでもいいけどさ、一応動画も欲しいわけ。外部に迷惑かけるんならアレだけど、一応部員の、しかもこう言っちゃなんだが、学校側からしてもいい宣伝になるよーな部分だろ、陸上部とバスケ部の活躍は。せめて来年一年は、でかい顔して存続してたいじゃん? ついでに部費も増やしてもらえたら万々歳だね。女受けと学校受けと両方に効くいい案だと思ったんだけど?」ここまで言われてしまうと、反論の仕様がなかった。
「安達って実は凄いんじゃないのか?」
帰り道。相変わらず理人の漕ぐ自転車に揺られながら、十貴はしみじみと言った。理人は精神的打撃から復活しきっていないらしく、ペダルを踏む足にも、心なし力が無い。
「……あのエネルギーをまともなことに向けるんならね……」
理人の声は音と一緒に魂まで抜け出しているかのようだ。変なところで繊細な奴だ。
「なんだよ。お前まだ気にしてんのか。大したことないって。俺も武辺も似たり寄ったりだ! 安達なんかどれでもオールマイティに見てるってことじゃん」
「別にソレで凹んでるわけじゃ……」
「じゃあいい加減元気出せ! うっとうしい!」
十貴は理人の横っ腹に拳を入れた。理人が潰れた蛙のような声を出し、自転車がぐらつく。
十貴には理人より余程自分や武辺が受けた、或いは受けることになった、損害のほうが甚大に思える。このままでは十貴は見世物だ。かといって、代替案などある筈もなかった。言を弄しているが故、安達の提案は酷いものに聞こえたが、掛け持ち部員に負担を掛けず、製作に参加はさせている点は、共同制作の案として評価できる。気がする。
「なあ英(エイ)、本当に俺のこと撮りに来んの?」
「……白宮はそれでいいのか、」
「積極的に嬉しいわけぁないけどさ。反論が見つからん。何言っても言い返される気がするし。安達に洗脳されてるのかもしんない」
「確かに。あいつと喋ってると、そういう時あるね」
映像部作るときもそうだった。そう言って理人はようやく笑った。
「俺達が単純過ぎるのかもしれないけど」
十貴は少し考えて、自分にとっての優先事項を整理した。被写体の役を意地で突っぱねても、他のことが出来るとは思えない。かといって、全く何の協力もしないのもバツが悪いと思われた。
「……お前になら別にいいかなぁ」
「え……」
「編集とかでさ、ぱっと見で俺だと判んないよーにしてよ。なんていうの? 『俺個人』が全面に出るのはごめんだけど、画面の中の部品のひとつみたいな扱いならいいや。安達が言ってるのとは違うだろうけど。そーゆーの、出来る?」
「出来る。……と、思う」
「じゃあ任す。好きにしろ。大体俺、そんなこと気にしてる場合じゃなかったんだ。足は直さなきゃなんないし、期末の勉強だってしてないし、大会まで一ヶ月切ってるし……」
インターハイまでの日数を、指折り数えて言いながら、十貴は恐ろしくなった。本当に、こんなことに煩わされている場合ではなかった。
地区大会で優勝しても、インターハイはまた別の世界だ。過去の記録だけ見ていても、十貴は大勢の挑戦者(チャレンジャー)の中の一人に過ぎない。
だがさしあたりの大問題は、夏中を部活に費やしても文句の出ないような点数を、期末考査で弾き出さねばならないことだった。
4/
その日のことを理人は鮮明に思い出すことが出来る。空の色。競技場の匂い。ざわめき。十五歳の自分の、掌に掻いた汗の心地悪さまで全て。二年前。中学校体育連盟陸上競技、地区大会決勝。
「どう転ぼうとこれで最後だ。好きなように走れ。悔いが残らないように」
顧問兼監督の教師は、そう言って教え子を送り出した。十貴は口数こそ少なくなっていたが、落ち着いた様子で肯くと、羽織っていたウィンドブレーカーを脱ぎ、ベンチから立った。
「さあ、気合入れて行って来い!」
理人は他の部員たちと共に、メインスタンドの最前列にいた。皆がメガホンを叩きながら、口々に応援の言葉を投げかけている。十貴がスタンドを振り返り、軽く手を振ると声援は一層大きくなった。
「しろみやぁ! 頑張れよー!」
「ときくんガンバってー!」
口々に叫ぶ仲間達の中、理人だけが無言だった。
頑張れ。大丈夫。落ち着いて。こんなときの言葉は、ありきたりでいいのだ。なのに理人は一言も発することが出来ない。
一瞬、十貴と理人の視線がかみ合い、十貴が笑った。笑いかけたように、理人には見えた。
「ト――、」
十貴、と。
理人がそう呼びかけるより早く、十貴はスタート地点へ向かって駆け出していた。背負った白いゼッケンは二十九番。その背中が遠ざかる。もう振り返らない。理人はただその後姿を見送るしかなかった。
竹のように伸びた手足が、濃紺のユニフォームを映してやけに白い。遠く、他の選手達に紛れても、十貴の周りだけ空気が違う。
「お前が緊張してどうする」
気が付けば、理人の隣に監督が来ていた。
「……んせい、」
やっと出た言葉は、これだ。理人の喉はカラカラに渇いている。膝の上で握った拳は自分でも驚くほど硬く、指を開いても違和感が残るほどだった。手の内側に爪あとが付いている。教師は苦笑し、理人の鼻先に黒い袋を押し付けた。受け取ると、やけに重い。
「まさかこんなとこまで来るとは思わなかったなあ。新聞部の奴等も他の試合に行っちまって、うっかり誰も来てないんだよ。なってないね。勿体無いから、相棒、お前が撮っといてやれ」
中にはカメラが入っていた。
簡単に使い方を説明され、フィルムとスタッフと書かれた腕章を渡される。理人は半ば呆然としたまま、それらを受けた。
初めて触れるカメラは、ずしりと重く、理人の手のなかで酷く存在感があった。部員たちの好奇の視線を背に、腕章をつけ競技場に降りる。
トラックでは選手陣は最後のテスト走行をしていた。コース脇で係員が空砲を鳴らして、スタート合図のチェックをしている。理人は視線を泳がせ親友の姿を探す。二秒もかからず見つかった。
十貴は第六レーンにいた。
どくりと、理人は自分の血が鳴る音を聞いた。
スタートラインに並び、跪くような姿勢で、十貴は真っ直ぐに前を見ている。白い顔の中で、結んだ口唇に淡い血の色が透ける。大きな眼をやや上向きに見開いて、苛烈ではない、それでも深く毅(つよ)い眼差し。
理人の立ち位置からスタート地点までは一〇〇メートル近く離れている。そんな細かな表情が判るわけがない。だからそれは理人の錯覚だ。だが、その幻が真実だと、根拠のない確信を以って理人は言えると思った。
だって知っている。十貴の表情なら全部。
どんなに離れていたって、その姿が僅かにでも見えるのならば十分だ。表情も口唇の色も眉の動きの一つ一つも、手に取るように判る。十貴のことなら全部。
俺が知ってる。
理人は、突然堰を切って溢れた自分の感情に、恐慌を起こして立ち尽くした。
スターティングブロックに足を乗せ、身構える様は獲物を狙う猫科の獣を思わせた。そのフォルムは、余計なものがこそげ落ちた、白い金属質の流線型をも思わせた。
風が袂を膨らませて抜けていく。
位置について、矢のように飛び出し、空を裂く。瞬きも出来ない。