無効力恋愛
「……平気だね。むしろ好き。俺は自分のことしか考えないからな。……辛くなったことがないってだけかもしれないけど」
「大丈夫、十貴は強いよ」
「そんなこと聞きたいんじゃないぜ」
十貴は前屈みになっていた背をのばした。梅雨明けの空の下、理人の自転車は真っ直ぐに進む。理人の背中寄りかかると、規則正しい拍動が伝わる。
「寄っかかると危ないよ」
「……ごめん、」
謝ったが、十貴は身体を起こさなかった。
「……変な思考って、どんな?」
瞬間、理人の身体が硬くなったのを、十貴は背中越しに感じた。
「―――、苦しいとか、リタイヤしたいとか、」
「それは別におかしくないぜ」
「……ああ、そうだね」
理人がまだ何かを隠しているのは確かだが、十貴はそれ以上聞かなかった。長距離ランナーの孤独は短距離走のそれとは比較にならないと、以前何かの本で読んだ言葉を思い出したからだ。
中学時代に今の話を理人から聞けていたらどうだったか、少し考えたが、無意味なのでやめた。大して現状は変わらないと思えた。理人の孤独は、短距離走者の十貴には判らない。十貴は、理人ではないから判らない。相談されてもどうしようもない。理人もそう思ったから、ずっと言わずにいたのかもしれない。
辛くて無理だと思った、なんて、自分が逆の立場だったら、確かに言いたくないかもしれない。
けれど―――。
十貴は寄りかかっていた背を離した。
独りで走るの平気だろ―――同じ言葉を武辺からも言われた。武辺は結局バスケに行った。中学時代から掛け持ちだったらしいが、それで陸上一本の自分と競っていたのだからムカつく。だが、それはそれとして、十貴だって独りであることに、何も感じないわけではなかった。
十貴と理人は同時期に走り始めた。競技は違ったが、フィールドは同じだった。そのうち、十貴はクラブ内の誰よりも速くなった。大会で一度武辺に負けて、俄然やる気が湧いた。次は絶対追い抜いてやる―――中三の地区大会では優勝した。そして高校。理人も一緒で、武辺も見つけて、当たり前のようにこれから三年間はこいつらと同じチームなんだと思った。
でも実際は一人だった。
別に、自分がどうこう言うことじゃない。理人はやりたくないのだと言うし、武辺は他にやりたいことがあるのだと言う。したいようにすればいい。十貴だって自分がしたくて走っている。個人競技だから、誰かがいなくて困るわけでもない。あいつらがいなくて困ることなんかない。今のチームメイトだって十分いい奴等だ。バスケをしてる武辺は格好良いと思うし、理人には写真の才能があるのかもしれない。なにか賞をもらっていたし。陸上をしていなくたって、一緒にいれば居心地がいい。
でも心臓の隅にごくごく小さい掻き傷がある。
一緒にかくれんぼをしていたのに、気が付いたら皆やめて帰ってしまったときのような。おいてけぼりだ。自分で選んだ場所だとしても。鬼止めずるいと叫んだところで惨めなだけだ。お前独りでも平気だろ、なんて、したり顔で声を揃えて。先に帰ったのは自分たちの癖に。
「そういうことじゃない」なんて、そう言いたいのは十貴のほうだ。
十貴は自分が好きで走っている。それが何より気持ち良い。だから、それ以外の瑣末なことなど何でもない。人並みに、辛い苦しいもうやめたい、そう思ったことなんかいくらでもある。でも走らなきゃ。他に何もない。最高の気分でゴールするためなら、何だって我慢できる。
だから。
でも。
―――別に、淋しいわけないんじゃない。
3/
「よお、明治令嬢。久しぶり」
木曜日。十貴が久しぶりに第二視聴覚室に顔を出すと、中には既に安達がいた。
「明治令嬢ってなんだよ」
「人力車で来るだろう。怪我の調子はどうだ」
「おかげさまで。そう言うときは調子じゃなくて経過って言うんだぜ。昭和の八百屋じゃなかったのか」
十貴は適当に荷物を置くと、安達の前の席に座った。安達の前にはレポート用紙が散らかっており、どうやら文化祭の計画を立てているようだった。
「真面目に考えてるじゃないか。……ベニヤ板、角材、電球、布各種に十四型テレビ? なんだこれ」
「展示に必要な道具書き出してんの。希望だけどな。勿論白宮くんにも協力してもらいますよぉ。これはもう決定項ね」
安達はニヤリと嫌な笑顔を見せた。
程なくして全員が部室に集まってきた。武辺はバスケ部を休んで来ている。自分の都合に合わせさせたようで、十貴が「悪かったな」と言うと、武辺は肩を竦ませた。
「うちはインハイ行けないしね。新体制に移行する前で、今は暇なんだ」
「それでもベスト4だろ」
話していると、平井が黒板に『麗稜祭対策会議』と書き出した。ミーティングが始まる。
「はい、本日はお暑い中ご来席いただきまして誠にありがとうございます。え、今回、我々映像部は麗稜祭におきまして、作品発表の場を設けさせていただくことになりました。部創立以来の活動の成果を知らしめる、またとない機会です。今日はそのためにどのような策を弄したら良いか、是非活発に意見を出し合いましょう」
部長挨拶を終えると、平井は教壇を降り、席に着いた。黒板は使わないようだった。
「で、どうするよ」
平井は皆に、というか安達に言った。安達はレポート用紙をまとめて、またニヤリと笑う。
「聞いてから文句言わないなら、考えてきましたよ」
「聞かないと文句も言えないだろ。何?」
「では、僭越ながら……」
安達は椅子の後ろ脚に体重をかけ、机との間でゆれながら喋りだした。
+++
「皆さんもご存知のように、我ら映像部の活動の半分は、学校行事で公表すると残念なことになってしまう性質のものです。ですが、悲しむ前に、何故このようなことになってしまったのかを考えてください」
「お前が言い出したんだろ」十貴が言った。
「それはここ、一稜高等学校がむさくるしい男子校だからです。この学び舎に青春を分ち合う少女達がいたら、あなた方は校舎内でエロビデオを見るなどというリスキーな行為に及ばずとも、スリリングで素敵な興奮と感動を得られたはずです。しかし今更、青春の輝きよりも偏差値だの進学率だのというクソのよーなものに惑わされて、共学に行かなかった己を悔やんでも仕方ないではありませんか。文化祭はこんな我が校にも近隣の学校からセーラー服やブレザーやミニスカや生足や生ふくらはぎや巨乳やおっぱいやギャルやねーちゃんや幼女が大挙して押し寄せる、夢のような日です!」
安達は拳を握って言い切った。やや芝居めいている。
「待て安達。はっきり言うけど、酷いな!」
「幼女ってなんだよ……」
「そんなすばらしい祭日に、発表の場を頂けるのです。これを利用しないのは愚の骨頂。我ら映像部は真実を学校側に悟らせないようにしながらも、女性客が喜んで見に来る、そんな展示を目指さなければなりません! ハイ賛同者は拍手」
気のない拍手が起こった。