シログチ
房子がリールを巻き出す。竿は半月のようにしなり、海中に突き刺さっているではないか。
「デカそうだな」
「重いーっ!」
そう言いながらも、房子の顔は満足そうに笑っている。
海底から水面まで、その距離にして30メートル程。その間に、魚との駆け引きを存分に楽しむ。それは、釣り人だけが味わえる快楽に他ならない。
一際大きな銀色が水面下で輝いた。
悦雄はキャビンの上からタモ網を手にすると、魚を掬った。網に収められた魚は40センチはあろうかという、見事なイシモチだった。
「すごいじゃないか、母さん。こんな大物を釣って」
「まぐれよ。まぐれ」
房子が照れるように笑った。
イシモチはグーグーと愚痴をこぼしながら、釣り人を睨んでいる。そのイシモチに悦雄は容赦なくハサミを入れた。イシモチは観念しきれないような愚痴をこぼしつつ、バケツへと放られた。
悦雄は良雄が釣ったイシモチをクーラーに移す。
「母さんの釣ったやつは、刺し身でもイケそうだな」
「イシモチのお刺し身なんて、滅多に食べられないものね」
「そうさ。釣り人だけの特権ってやつさ」
悦雄の顔が自慢げだった。
気が付けば船内、あちらこちらでイシモチが上がり始める。同時にグーグーという、少し滑稽とも思えるようなイシモチの愚痴が聞こえ出す。
「うわっ!」
思わず叫んだのは野地だった。
「どうした?」
ようやく自分の釣り支度を始めた悦雄が、目を野地にやった。
「このイシモチ、小魚を吐き出しましたよ。イシモチって、小魚も食べるんですねぇ」
「ほう」
悦雄が珍しいものでも見るように、野地の釣ったイシモチと、それが吐き出した小魚を眺めた。
「本当だ。俺も噂には聞いていたけど、イシモチが小魚を吐き出したのを実際に見たのは、初めてだな」
「したり顔でちゃっかり弱い者を襲うところも課長そっくりですね」
「野地、お前、相当、課長のこと嫌いだろう?」
「わかります?」
「あははは、愚痴れ、愚痴れ。イシモチみたいによ。課長のネチっこい厭味は腹黒い『クログチ』だけど、俺たちのは水に流す真っ白な『シログチ』よ」
悦雄が豪快に笑った。
「あら、それなら、私だって愚痴らせてもらうわよ」
房子がニヤッと笑った。
「おお、今日はいい気分だから、どんなことだって水に流すぞ」