シログチ
「いや、前回がシロギスだったし、小物が重なるじゃないか。イナダの声が上がっているんだよ。それにマイナーな釣り物だよ、イシモチは。キス釣りやアジ釣りのゲストのイメージが強いな」
「意外と専門に狙ってみると面白いんだよ。なかなか食い込まなくって。それに生き締めにすると、刺し身でもイケる。金沢八景あたりじゃ、専門に狙っている船宿もあるくらいだ」
悦雄は渋る田崎に食い下がった。女房と息子に約束をした以上、もう後へは引けなかった。何としてでも田崎を説得するしかない。
「うーん」
田崎は腕組みをしたまま固まってしまった。
「おはようございます」
そこへ野地がポットへお湯を入れにやってきた。課内でも一番若手の彼は、いつもお茶係なのだ。
「おう、おはよう。ところで野地、お前、釣りをやらんか?」
悦雄に突然、仕事以外の質問をされ、野地はキョトンとした顔をしている。彼にはよほど、悦雄が「堅物」というイメージがあったのだろう。
「釣り、ですか? 以前にフライフィッシングを齧ったことはありますけどね。あまり釣れないもんだから、やめちゃいましたよ」
「お前、沖釣りをしてみる気はないか?」
「はあ、沖釣りというと、船に乗っていく?」
「そうだ。今は貸し道具も揃っているし、気軽に乗れるぞ。今度の日曜日に一緒に行かないか? 会費も初回は俺が奢ってやるよ」
悦雄の顔はにこやかだった。その時の顔は仕事の時、彼が見せる厳しい表情とはまるで違っていた。いかにも愉快そうに野地を誘ったのである。
野地はそんな悦雄の表情に吸い込まれるようにして「はい、行きます」と返事をした。
「初心者が行くんじゃあ、小物釣り、シログチで決定だな」
悦雄が勝ち誇ったように田崎を見た。田崎は呆れ顔で悦雄を眺めている。
「まったく、お前って奴は、いつも強引なんだから」
だが、田崎もすぐに笑った。
「さあ、仕事だ」
悦雄が野地の肩を叩く。その表情はいつもの厳しい係長の顔に戻っていた。そんな二人を田崎は微笑んで見送ると、ポケットに手を突っ込んで廊下を歩き始めた。
日曜日の朝、渡辺家は早くから明かりが点いていた。もちろん、釣り支度のためである。そんな渡辺家の居間を覗いてみよう。
「おはよう。昨夜は眠れたかい?」