ヴァーミリオン-朱-
紅い男は呪架の気迫を軽く受け流し艶笑した。
「これが傀儡士の召喚術。傀儡士の技量があれば、どんな存在でも操ることができる。このニ角獣はほんのお遊びだ。さて、次は通常の妖糸のみで戦う戦法」
紅い男は宙に妖糸で目にも見える蜘蛛の巣を描く。
蜘蛛の巣を見上げていた呪架は躰に違和感を覚えた。肢体になにかが巻き付き、強引に蜘蛛の巣まで吊り上げられ、虫のように蜘蛛の巣に捕らえられてしまった。
「なにをする気だ!」
喚く呪架に紅い男が説明をする。
「基本動作として妖糸は斬る以外に、巻きつける、モノを操ることができる。そして、他にもお前を捕らえた〈蜘蛛の巣〉をつくることもできる。その妖糸は柔らかいために、粘着性がある」
〈蜘蛛の巣〉に磔にされた呪架は身動きひとつできなかった。粘着性があるどころか、鋼で躰を固定されたみたいに頑丈だ。
今まで動きを封じられていたニ角獣が急に暴れ狂い出した。紅い男が〈操り糸〉を解いたのだ。
角を斬られたニ角獣は憤怒し、前脚を高く上げて嘶き、紅い男に向かって突進して来た。
「熟練した傀儡士は同時に複数の妖糸を放つことができる」
そう前置きをして、紅い男は右手から放った三本の妖糸を縦に払い、左手から放った三本の妖糸を横に払った。
六本の妖糸はニ角獣を十字に斬り裂き、鮮血の雨が地面に降り注いだ。
細切れにされたニ角獣の肉片を見ることもなく、紅い男は上を見上げて〈蜘蛛の巣〉に捕らえられている呪架の顔を見つめた。
「今はお前に見せるために遅く妖糸を放った。これが私の秘伝〈悪魔十字〉。本来は六本同時に放つが、今回は三本ずつ放った」
その技を呪架はしかと見た。
妖糸は一本だけでも練るのが大変なのに、それを片手で三本。呪架は両手を合わせて二本が限度だ。しかも、左手から妖糸を放つことを不慣れとしている。今の呪架に〈悪魔十字〉を不可能だった。
傀儡士のことをなにも知らないと呪架は思い知らされた。自分の技はお遊びだった。召喚など知りもしなかった。
紅い男は新たな魔法陣を宙に描いた。
〈それ〉の呻き声が羽音と共鳴し、?向こう側?から蛾のシルエットが飛び出した。
蛾のような翅を持っているが、躰は灰色の毛を生やしたゴリラのようで、顔には大きく紅い昆虫のような眼が二つある。
蛾男と呼ぶべき怪物は鋭い嗅覚を働かせ、地上の血溜まりを発見した。肉塊にされたニ角獣が沈む血の海だ。
鋭い爪の付いた前脚を血溜まりに下ろし、蛾男は口からストローのような器官を出して血を啜りはじめた。
血は見る見るうちに吸い上げられ、蛾男は更なる食料を探して嗅覚を研ぎ覚ませた。
蛾男の眼が〈蜘蛛の巣〉に掛かった呪架に向けられる。
赤黒いローブが放つ死の香に誘われて、不気味な羽音を立てて蛾男が呪架に近づく。
躰が張り付いてしまっている呪架は逃げることもできない。
「クソッ!」
短く怒りを発する呪架。その耳に叫び声が聴こえた。
紅い男の前の空間が裂け、風を吸い込みながら叫び声をあげている。
闇色の裂け目。
その奥から悲鳴が聴こえる。泣き声が聴こえる。呻き声が聴こえる。どれも苦痛に満ちている。常人であれば耳を塞がずにはいられない。
紅い男が蛾男を指さした。
「〈闇〉よ、喰らうがいい!」
裂け目から飛び出した〈闇〉が荒れ狂う風のように、絶叫しながら蛾男に襲い掛かる。
〈闇〉は触手のように伸び、蛾男の胴を掴み、足首を掴み、眼を覆い、やがて全身を呑み込んでしまった。
蛾男を呑み込んだ〈闇〉はそこら中を飛び交い、呪架や蘭魔が呑み込まれるのも時間の問題と言えた。
だが、紅い男が威厳を込めて命じる。
「自分の世界に還れ!」
〈闇〉は荒れ狂っていたのが嘘のように静まり、元来た裂け目の中に還っていった。
そして、閉じられる闇色の裂け目。
世界は何事もなかったように静まり返り、ニ角獣の肉片や血の一滴までもどこかに消えてしまっていた。
紅い男は両手から妖糸を放ち、呪架を捕られていた〈蜘蛛の巣〉を切り刻んだ。
地面に軽やかに着地した呪架は地面から顔を上げようとしなかった。
呪架の額から零れ落ちた汗が乾いた大地に染み込む。
あの〈闇〉こそ、呪架を?向こう側?へ連れ去ったもの。それを紅い男が見事に使役していた。
呪架の視線の先に紅い男の靴が見えた。顔を上げると紅い男が呪架を見下している。
「喰われたくなくば〈闇〉を決して恐れてはならぬ。逆に〈闇〉を恐怖させ、我が僕とするのだ。〈闇〉を従えてこそ真の闇の傀儡士と云える」
「俺にそれができるのか……」
不安は〈闇〉が付け入る材料だ。
呪架は静かに瞳を閉じ、心を鎮めた。
瞼の裏で泳ぐ残像。
?向こう側?に連れ去られたときの光景を呪架は頭を振って消し去った。
再び呪架が目を開けると、木の天井が見えた。
全身を濡らす大量の汗はソファにまで染み込んでいた。
呪架は精神界から現実の屋敷に戻って来たのだ。
ソファの上に寝かされていた呪架は上体を起こそうとしたが、内臓が激しく痛み、急な咳が襲い、口の中に鉄の味が広がった。
躰が〈闇〉に侵蝕されているのだと呪架は感じた。これは?向こう側?にいたときからだった。このまま闇の傀儡士として戦えば、その代償として命を削ることになる。
悠長に構えている時間はない。
口の中に広がる血を飲み込み、呪架は上体を起こした。
傍らにはセーフィエルが立っているが、その表情は月のように無機質なものだった。
「全て見させてもろうていた。傀儡が完成したら、今後はそれで戦うのが良いじゃろう。それで躰への負担は少し軽減されるはずじゃ」
しかし、呪架は召喚を知った、〈闇〉が操れることを知った。
まだ使い方や使役の仕方はわからず、今後の課題となったが、あの力を使うには〈闇〉に身を置くことになる。強力な力は大きな代償を必要とする。
その覚悟を呪架はとうの昔にしていた。
己の躰が滅びるのが先か、目的を果たすのが先か……。
時は流れを止めることなく呪架を闇に導く。
《6》
帝都の東方に位置するミナト区。
リニアモーターカーが停車するギガステーションがあることや、千葉県が東京湾を挟んあることから、帝都でも三本の指に入る大都市だ。
臨海公園を見下ろすように立っている通称ツインタワービル。ノースとサウスに分かれる一〇〇階建ての双子ビルだ。帝都でもっとも夕焼けが綺麗に見える場所としてデートスポットになっているほか、ノースビルはショッピングビルとして機能しているため、観光マップでも大きく取り扱われている。
ノースビルには帝都で一般的に買える物ならば、全て取り揃っていると言ってもいいだろう。もちろん武器も売っている。
家族連れの観光客がノースビルに正面ゲートを潜ろうとしたとき、それは起きた。
地鳴りが響き、大地が揺れる。
震度五強の地震が都市を揺るがした。
人々はすぐさまビルの中に逃げ込む。耐震性を兼ね備えたビルは意図的に揺れることにより、地震の揺れとシンクロさせて揺れを相殺する。
ビルは揺れに耐えたが、並木道の木々は根を地中に張っているにも関わらず、臨海公園の多くの木々が倒れた。
作品名:ヴァーミリオン-朱- 作家名:秋月あきら(秋月瑛)