ヴァーミリオン-朱-
空間を妖糸で断ち割ったダーク・シャドウは呪架を連れてその中に消えた。
〈闇〉の叫びが木霊する暗闇を歩き、腐食する空気を己の魔気で払い、ダーク・シャドウは出口に向かっていた。
なにかを感じてダーク・シャドウの足が止まった。
ダーク・シャドウは渾身の一撃で妖糸を放つ。
切り裂かれた空間の裂け目に流れ込んでくる閃光の波。
光の渦にダーク・シャドウは迷わず飛び込んだ。
消毒液の臭いが鼻を衝く。
その部屋にいた白衣の男が振り返った。
獅子の頭部を持つマルバス院長。
「なんのようじゃな?」
「手術室を借りる」
「ふぉふぉふぉ、よかろう。自由に使え、わしは休業の看板を出してくる」
マルバス院長は白衣を翻して部屋を出て行った。
ダーク・シャドウは抱えていた呪架を凍てつく手術台に寝かせた。
死の淵を彷徨っているというのに、呪架の顔は安らかに瞳を閉じている。過酷な運命を生きる者の顔ではなく、本来の歳である思春期を謳歌すべき少女の寝顔。
ダーク・シャドウは素顔を隠していた白い仮面を外した。
仮面の下から現れた恐ろしいほどに端整な顔立ち。二十歳前半か、あるいはもっと若いかもしれない。中性的で魔性を帯びた顔立ちは、どこか妖艶さを漂わせ、深い黒瞳に映り込む呪架の顔と雰囲気が酷似していた。
女性のように細い繊手でダーク・シャドウは呪架の服を脱がしはじめた。
露になる呪架の裸体はすでに赤らみが鋼へと変わっていた。全身から生気が抜けつつある。事は一刻を争っていた。
だが、ダーク・シャドウは小川のように、ゆっくりと作業を進めていた。
ダーク・シャドウは考え深げな瞳を閉じた。その指先は呪架の胸の中心で止まっている。
「一族の呪いは……おまえで終止符が打たれる」
ダーク・シャドウの指先から妖糸が放たれ、それはまるでメスのように呪架の胸を刻んだ。
その胸に今、刻印された血の紋章。
滲み出す血は黒いまま、紅くは染まらない。
「後戻りはできない!」
叫びと同時にダーク・シャドウは呪架の胸に手を突き刺した。
大きく眼を見開いて呪架の上半身が跳ね上がった。
絶鳴はなかった。
生命としての呪架は死んだ。
ダーク・シャドウは呪架の胸の中で手を動かし、なにかを鷲掴みにすると一気に引き抜いた。
血を滴らせながらダーク・シャドウの手に握られているものは、闇色のクリスタルだった。
〈闇〉の侵蝕されている呪架の〈ジュエル〉だ。
呪架のすべてはただひとつの漆黒の結晶に込められた。
すでに呪架の新たな躰は用意されていた。呪架に瓜二つの傀儡の躰。傀儡士の業が創り上げた傑作。
鮮やかな手並みで傀儡の胸が裂かれ、闇色の〈ジュエル〉が胸の奥深くへとしまわれた。
セーフィエルも知らぬ秘儀。
新〈ジュエル〉法。
目にも留まらぬ速さで作業は進められ、傷口も残らず生まれたままの肌で生まれ変わった。
「紫苑は死んだ……蘇れ呪架」
囁くダーク・シャドウの声に反応して、呪架の瞼が微かに痙攣した。
儚い人の時間は終わり、傀儡としての永久がはじまる。
闇を帯びた深い黒瞳が開かれた。
その瞳がはじめて見た者は、白い仮面の主。すでに素顔は隠されてしまっていた。
「俺は……どうなった?」
全身の痛みは消えていた。躰が前よりも軽く、力がひしひしと漲ってくるのを感じた。
「傀儡になった」
淡々と言ってダーク・シャドウは鏡を指さした。
「姿見がそこにある。生まれ変わった自分の姿を見るといい」
呪架は言われるままに手術台から飛び降りて、大きな鏡に自分の姿を映し出した。
なにも変わっていないように思えた。
違和感もなにもない。
ただ、肌は瑞々しく透き通り、染みや無駄な毛穴はなくなっていた。小奇麗な絵画のようだ。
「俺は本当に傀儡になったのか?」
鏡に映るダーク・シャドウに訊いた。
「それ以外に方法がなかった。魔人と呼ばれた天才傀儡士も、躰を侵す〈闇〉には勝てなかった。その息子も同じ運命を辿った。二人とも自らの躰を傀儡とすることで、〈闇〉の侵蝕を克服し、更なる力を得た」
「おまえはいったい誰だ?」
呪架は振り返り白い仮面を見つめた。
「躰を傀儡にすれば、〈闇〉をいくら使っても躰に負荷がない。傀儡にならなければ、〈闇〉に喰われ久遠の苦しみに囚われる運命だった」
「そんなこと訊いてない。おまえは誰だって言ってんだよ!」
「…………」
ダーク・シャドウは質問には答えず、呪架に背を向けて空間を妖糸で裂いた。
闇色の裂け目に消える紅いインバネス。
呪架は後を追えなかった。
ただそこに立ち尽くし、鮮やかな紅を眼に焼きつかせたのだった。
《5》
「あはははは、ボクは今、最高の気分だよッ!」
舞い踊りながら慧夢は歩道をスキップで歩いていた。
慧夢の首に付けられていた首輪が消えている。あの首輪が慧夢の制御装置だったはずだ。叛逆を起こせば首輪が作動して慧夢は死ぬはずだった。
しかし、慧夢は自由気ままに暴れていた。
夢殿から逃げ出したあと、帝都政府の追っ手を振り切り、いくつかの区を跨いでマドウ区までやって来ていた。
腹を空かせた慧夢は塀を越えて民家の庭に忍び込んだ。
庭先から妖糸を放ち、窓ガラスを切断した。切られた窓の断面は、まるでレーザーで切られたように鮮やかだ。
ちょうど慧夢が土足で上がりこんだ部屋はリビングだったらしく、若い女性がひとりでテレビを見ていた。
「ご、強盗!」
声をあげる女に慧夢は口の前で人差し指を立てて見せた。
「しーっ、騒ぐと殺っちゃうよ」
慧夢は満面の笑みを浮かべていた。
異常者だと瞬時に感じて女は叫び声をあげそうになった。
その叫びを止めたのは女本人ではなかった。
慧夢は二メートルほど跳躍して、ソファに座っていた女の躰に飛び乗った。
そして、女の口と自分の口を重ねたのだ。
ゆっくりと女から顔を離し、慧夢は艶やかに自分の唇を舐めた。
「ボクが声を出していいって言ったとき以外はしゃべっちゃダメだよ。次は本当にコロスからね」
震えながら頷く女の首には、すでに慧夢の指先が食い込んでいた。
自分の服従したことを感じて慧夢は女の首から手を離した。
「イイ子、イイ子、素直な子はボク大好きだよ」
女の頭を撫でながら慧夢は無邪気に笑った。
「さってと……」
慧夢はぐるりと部屋の中を見回した。
「お腹空いちゃって、食べ物どっかにないかな。デリバリーでピザ頼もうよ、ボクねピザがスキなんだ……チーズ剥がして生地だけ食べるんだけどさ、あははは」
腹を抱えて慧夢は自分の発言に爆笑した。
背を丸めていた慧夢が不意に動きを止めた。
感じる殺気。
「動くな止まれ!」
威勢のよい男の声が響き渡った。
慧夢が庭先に目線を向けると、口径の大きなハンドガンを構える男が立っていた。着こなしている制服は帝都警察の物だ。
警察官の姿を見て女が泣き叫ぶ。
「助けて!」
追っ手の現われに慧夢は唇を尖らせた。
「また腹ごしらえもしてないよ。トイレと食事とお風呂くらいは自由にさせて欲しいよね!」
作品名:ヴァーミリオン-朱- 作家名:秋月あきら(秋月瑛)