ヴァーミリオン-朱-
戦闘不能に陥った女帝の分もズィーベンは素手で戦わねばならなかった。
ズィーベンがセーフィエルに飛び掛る。
「結……ッ!」
言霊を蝕まれながらもズィーベンは魔法を発動させた。
力強く伸ばしたズィーベンの手がセーフィエルの躰に触れた。その部分からセーフィエルの躰がクリスタル化しはじめたのだ。
まるで物体が氷に包まれるように、セーフィエルの躰が透き通るクリスタルになろうとしていた。
だが、優勢のはずのズィーベンが眼鏡の奥で瞳を見開いた。
逆流している。
セーフィエルに触れている指先から、ズィーベンの躰がクリスタルになりはじめていたのだ。
「うふふふ、呪詛返しが成功したようじゃな。どうじゃ、自分の術で敗れる気分は……結界師ズィーベンの名も地に堕ちようぞ」
もうすでにズィーベンは口を開けることすらできなかった。彼女の躰は純粋なクリスタルへと物質転換してしまったのだ。
一部始終を見ていた女帝は声にならない怒号をあげた。
重い躰を持ち上げ女帝は必死の思いで立ち上がった。
懸命な女帝の姿を見てセーフィエルは艶笑した。
「立ち上がれるとはあっぱれじゃ。?闘将?の名は伊達ではないようじゃな」
「……ま……ね……やっ……この……世界に……順応してきた」
「うふふふ、良い義体を造ったゼクスに感謝するのじゃな」
「ゼクスの欲しがってた限定フィギュアでもプレゼントしようかなー」
余裕の笑みを女帝は浮かべた。
しかし、内心ではまったく余裕などない。
過去に銀河追放したときも手こずった相手だ。一筋縄でいかないのはわかっている。なによりも注意しなくてはいけないのは、その正攻法ではない戦い方だ。
セーフィエルが艶やかに口元を緩ませた。
「?闘将?と賛美され、恐れられようと、その真の実力を発揮できなくてはかわいそうにのお」
「今から見せてあげ……りゅ!?」
ヤバイと女帝が悟ったときには、すでにその足は宙に浮いていた。
重力反転。
女帝の躰が天に向かって堕ちていく。果てしない宇宙へ吸い込まれるように、抵抗もできないまま女帝は堕ちる。
天に堕ちる女帝を見上げながらセーフィエルが呪文を呟く。
「シャドウビハインド」
刹那にしてセーフィエルの姿は女帝の足を掴んでいた。
「うわっ離せ! じゃなくて、止めろ!」
喚く女帝の顔を見上げながらセーフィエルは美しい艶笑を浮かべた。
「さらばじゃ」
夜の風よりも冷たい挨拶。
星のひとつが強烈な光を放って膨張した。
それは刹那だった。
スーパーノヴァ。
超新星爆発がセーフィエルの創り上げたコスモを一気に呑み込む。
莫大なエネルギーが世界を乱し、閃光爆発の渦にセーフィエルと女帝は消えた。
同時刻、〈箒星〉が大爆発を起こし、核爆弾が投下されたという誤報が世界を駆け巡った。
《4》
地下水脈から下水道を通り、やがて呪架は川に放流され下流へと流されていた。
幅の広がった川で流れが緩やかになり、呪架は川岸に向かって必死にもがきはじめた。
両腕が使えないために足だけで水を蹴り、死の荒野を這う思いで川岸に上半身を乗り上げた。
呼吸が異常なまでに乱れ、視界も意識も霞んでしまっている。
死神の足音は刻淡々と迫っていた。
一日か、半日か、数時間か……残された時間はあと僅かだ。
――その僅かな時間で自分になにができる?
呪架は歯を食いしばった。歯の隙間から滲み出す血は、胃や肺からの出血である。生きていることだけやっとなのだ。
死に対する恐怖心はない。
しかし、死は望んでいない。
呪架は生きたいと魂の底から願った。
今、呪架を突き動かしているモノは復讐心に他ならない。母を葬った世界に対する憤りと、狂った世界への報復。なにもかも破壊してしまいたかった。
自らが死ぬことと、たった独りで世界に取り残されること、自分の存在を他に見出せない点では、どちらも死んでいる。違いは背負う辛さだ。呪架は苦しみを背負っていた。
あの頃のエリスは決して戻らぬ過去の幻影。
セーフィエルは遠い親戚か他人にしか思えない。
血の繋がった双子の慧夢でさえ、殺すべき敵と化した。
呪架は世界に生きながら孤独を感じた。
生きながら死んでいる。
なぜか呪架の脳裏に顔も知らない父のことが浮かんだ。
父――愁斗はおそらく死んでいる。マルバス魔導病院の院長との契約により、死して腕を切り取られた。その腕は今、呪架の右腕として生きている。
傀儡士が大事な腕を捨てるはずがない。
呪架の腕はもう動きそうもなかった。下水や川を流されたことにより雑菌が傷口を侵し、傷口の奥までも腫れ上がってしまっている。
例え妖糸が振るえなくても、生きてさえいれば機会が巡って来ることもある。
呪架は立ち上がろうと川に浸かっていた下半身を動かそうとした。だが、動かない。
死の呻き声が呪架の耳に届いた。
幻聴ではない、確実な死が呪架に迫っていた。
血の臭いを嗅ぎ付けた四つ足の獣が呪架にゆっくりと近づいて来る。
白銀の毛が生え揃ったフェンリルの末裔。三メートルもある白銀の野犬が呪架の命を奪おうとしていた。
呪架の近くまで来た白銀の野犬が遠吠えをあげた。群の仲間を呼んでいるのだ。
仲間で皮を剥ぎ、肉を抉り、内臓を噛み千切り、獲物を分け合う。
野犬の腹を満たす肉が呪架の末路なのか?
一匹だった白銀の野犬が、二匹、三匹……と増えていく。
呪架は近づいてくる白銀の野犬に向かって野獣のように咆えた。
負けずと白銀の野犬も咆え返した。
呪架は再び咆え返そうとしたが、口から出たのは声ではなく黒血。
ついに白銀の野犬どもが呪架に喰いかかろうと襲って来た。
死を目前にして紅い戦慄が奔った。
白銀の毛並みが紅く染まり、舌をだらしなく垂らした野犬の生首が地に堕ちた。
鮮やかに紅いインバネスを翻し、仮面の主は次々と煌きを指先から放った。
前脚を斬り飛ばされ、尻尾を切り落とされ、首を断絶される。
紅い残骸が川の水に浸り、絵の具を垂らしたように、紅い色が下流へ流れて逝く。
残り一匹になった野犬が背を向けて逃げようとした。だが、容赦ない煌きは野犬を縦に切断した。
目を覆いたくなるような無残な光景の中で、無機質な仮面が呪架を見下した。
「死にたくないのならば、私の手を取れ」
冷徹な声を発し、ダーク・シャドウは細い繊手を呪架に伸ばした。
呪架は心を決めていた。
――人の足元を這ってでも、屈辱を背負ってでも、強かに生き延びてやる。
呪架は腕を伸ばそうとしたが、もうすでに両腕とも死んでいる。仮面の奥でダーク・シャドウもそのことに気づいているだろう。だが、あえて手を伸ばすのみ。
必死の思いで呪架は躰を地面に這わせ、背筋を使って躰を海老反りにさせ、汗の滲む額をダーク・シャドウの掌に押し付けた。
「腕が動かない、これで勘弁してくれ」
「おまえの魂は私が貰い受ける」
「助かるなら悪魔でも売ってやる……」
呪架の意識は静かに落ちた。
死の淵に旅立った呪架の躰をダーク・シャドウは抱きかかえた。
再び呪架がこの世で目を覚ますかは、すべてダーク・シャドウの手にかかっている。
作品名:ヴァーミリオン-朱- 作家名:秋月あきら(秋月瑛)