ヴァーミリオン-朱-
「この世界の奥に〈タルタロス〉という絶対牢獄の世界がある。その世界へと続く〈タルタロスの門〉を守っている新しい門番の名前が確か、エリス」
礼も言わずに呪架は異形に背を向けて歩きはじめた。
異形にも引き止める理由はない。
呪架の後姿は〈地獄〉の奥へと消えた。
《8》
呪架は死の大地を奥へ奥へと進み、人が通るには大きすぎる巨大な門が目に入った。
〈タルタロスの門〉と呼ばれる門に間違いない。
門の前には何者かがひとり立っていた。老人の話が正しければエリスのはずだ。
呪架は足を止めた。
ひと目で母だと感じた。向こうも呪架に気付いた様子だった。
「紫苑!」
酷く掠れた声で呪架は本当の名を呼ばれた。
呪架は声を出せなかった。
感激の再開には程遠い悲惨な再開。
母の姿は醜い異形の者へと変わり果ててしまっていたのだ。
下半身はとぐろを巻く蛇であり、顔も瘴気によってただれてしまっている。けれど、呪架はエリスの魂を感じた。
ここに来る前に出会った異形も同じだったのだ。元は別の姿かたちをしていた者が、この〈地獄〉の瘴気に犯され、躰を異形の者へと変わり果ててしまっていたのだ。
呪架は辛い現実を見据えた。
「……お母さん」
「私が母だとわかるの!?」
「お母さんだって、わたしのことすぐにわかったでしょ。わたしだってお母さんのことわかる」
ついに呪架は母との再会を果たしたのだ。約五年の月日、呪架にはもっと幾星霜の時に感じられた。
エリスにとっては本当に幾星霜の時だった。
人間が住む世界とは時間の流れが違うために、向こうでの一日がこちらでは一年だったのだ。それでもエリスは呪架のことを忘れずにいた。
しかし、エリスにとって呪架はもう二度と会うはずのなかった我が子だった。
「なぜこんな世界に、来てしまったの?」
「お母さんを連れ戻すために決まってるじゃないか!」
「私はここを離れることができないの、ごめんなさい、紫苑」
「どうして!」
心からの叫び。なんのためにここに来たのかわからない。引くわけにはいけなかった。
呪架は母の腕を掴もうとした。だが、その手が振り払われた。母に拒否された呪架は愕然とした。
昔と変わらぬ瞳でエリスは呪架を見つめた。
「私の話を聞きなさい」
「嫌だ!」
「聞きなさい!」
叱られた呪架は黙るしかなかった。
エリスは呪架から二歩、三歩、距離を置いてから話しはじめた。
「この場所に紫苑が来たということは、大よその事情は知っていると思うわ。この〈裁きの門〉を扱えるのはセーフィエルお母様の血を引く者だけ。けれど、私は門の開き方を知らず、門を管理していたお姉様はすでに〈闇の子〉の封印の犠牲になり、お母様は銀河追放されたあとだった。ここまでの話はわかるかしら?」
呪架は無言で頷いた。それを見てから、エリスは話を続ける。
「日々増大する〈闇の子〉の力を封じるには私の力が必要だった。けれど門の開き方を知らない私はこの世界には入れない。私どころか、お姉様がいなくなってからは、〈裁きの門〉は一度も使われたことがなかった。それでも私はこの世界に来なければいけなかった。だから私はズィーベンの力を借りて、魂だけの状態でこの世界に来たの。魂だけならば門を通ることができたから」
「そんなこと俺には関係ない! お母さんに黄泉返って欲しいだけだ。〈光の子〉と〈闇の子〉の戦いなんて興味ない。世界が滅びようと関係ない」
それだけが願い。罪のない人も呪架は殺してきた。他人の死など関係ない。母親さえ黄泉返ればそれでよかった。
「なんてことを言うの!」
「本当の気持ちを言っただけだよ」
「私はここを離れない。離れられない」
エリスは自分の心臓から伸びている鎖を指差し、鎖が繋がれている場所に指先を移動させた。鎖は〈タルタロスの門〉に繋がれていたのだ。
「私の魂と直接繋がれているわ。だから私はここを離れられない」
「そんな鎖切ってやる!」
呪架の手から放たれた妖糸が鎖を断ち切った。
エリスは表情をゆがめた。
「なんてことをするの!」
「帰るんだ、帰ってその躰も全部治す!」
「この躰は私に与えられた罰。魂の状態でここに来た私の躰に邪気が巻きついて、醜い肉体を形成した。だから、これは私の罰なのよ」
「お母さんはなにも悪いことをしてない。だから罰なんて受ける必要なんてない」
「愁斗との間にあなたと慧夢を生んでしまったことが罪なのよ」
「俺が産まれて来なければよかったのか!」
「違うわ、あなたに罪はない」
「お母さんは罪なら、俺はなんなんだ、クソッ!」
呪架の手から妖糸が放たれ、エリスの躰を強く拘束した。
「なにをするの紫苑!?」
「無理やりにでも連れて行く」
だが、呪架は外に出る方法を知らない。この場所から出られるのはセーフィエルの一族のみ。呪架もそうだが、やり方を知らなかった。
呪架が怒鳴る。
「どうやったら外に出られる!」
「私は知らないわ」
「嘘だ、セーフィエルの血を引く者だけが出れると聞いた」
「私は出る必要がないから、その方法を知る必要もなかった」
「クソッ!」
だが、ここで諦めるわけにはいかない。
呪架は?向こう側?を脱出した方法を行使する。
傀儡士の妖糸は空間を断ち割る。
呪架の放った妖糸が空間に傷をつくり、別世界への出入り口をつくった。
しかし、その先が辿り着きたい世界とは限らない。
エリスは悲しみに暮れた。
「やはり紫苑も傀儡士になっていたのね。運命は決して変えられない」
「お母さんをここから連れ出すことで運命を変えてやる!」
呪架はエリスを引きずり、空間の裂け目に飛び込んだ。
《9》
眼が眩むほどに歪む空間を抜けた先では、青々とした新鮮な空気が待っていた。
緑の芝生が広がっている。
目の前には背の高い時計塔も建っていた。
文明のある世界。
時計を見上げたエリスが呟く。
「メビウス時計台」
それは帝都のエデン公園の敷地内にある時計塔の名。
呪架とエリスは無事に生還したのだ。
この場所は夢殿の目の鼻の先ほどの距離にある公園で、時計塔の付近は磁場だけでなく、空間や時間までもが歪んでいるために、一般は立ち入り禁止になっている区域だった。
しかし、今は時計の針が止まり、怪奇現象もなにも起きていなかった。時計の針は〈箒星〉が堕ちたあの日から止まってしまっていたのだ。
呪架はエリスに巻きつけてあった妖糸を解いた。
「行こう」
エリスは無言だった。自分はさらに大きな罪を犯してしまった。取り返しのつかない行為かもしれない。エリスの心は重かった。
呪架とエリスは人の気配を感じて、顔をそちらに向けた。
芝生を踏みしめて歩いて来る小柄な少年の姿――慧夢。
「なにか予感がしたんだ。まさかここで会えるとは思ってなかったケド」
エリスにはそれが息子の慧夢であるとすぐにわかったが、慧夢はそこにいる異形が母だとは気付いていないようだ。
何者かわからないが、慧夢はエリスになにかを感じていた。けれど、今はそんなことよりも呪架の相手をする方が先決だ。
戦いの合図は同時に放たれた妖糸だった。
呪架と慧夢の妖糸が宙でぶつかり、煌きながら砕け散った。
作品名:ヴァーミリオン-朱- 作家名:秋月あきら(秋月瑛)