ヴァーミリオン-朱-
〈裁きの門〉が開かれたそのとき、生成装置で眠っていた呪架が目覚めた。
時を同じくして、夢殿の地下で眠っていた慧夢も目覚めていた。
〈ヨムルンガルド結界〉が起こした地震の余波を受けて、帝都エデンも荒れに荒れていた。
アスファルトを割って鎧を纏った蛇のような生物が顔を出す。
帝都の地下に張り巡らされた大下水道に生息していると云われる、大海龍の幼生が次々と繁華街やオフィス街に姿を見せたのだ。
ビル街を縫うように駆け巡る白銀の群。
白銀の毛並みを揺らし、三メートル以上もある野犬の群が暴れ廻り、手当たり次第に人々を襲って肉を喰らっていた。
人々は逃げ惑い、交通網まで麻痺してしまった。
帝都政府は対応に追われ、傷を負っていながらもフュンフは戦い、スポークスウーマンのフィアも狩りに出され、単独行動をしていたドライは二丁拳銃を乱射し、ゼクスは数年ぶりに夢殿の敷地内を出た。
そして、死都東京では、呪架が〈裁きの門〉へと突入しようとしていた。
《7》
――地獄。
そこはまさに地獄のごとき場所だった。
天は赤く燃え揺れ、ガス状の暗雲が流れながら渦紋を巻く。
岩肌を剥き出しにした渇いた大地には、大きく口を開けて深奥まで続く亀裂が走り、延々と続く遥か先には溶岩を噴出す群山が眺めた。
この世界のどこかにエリスがいると呪架は直感した。
ついにエリスのアニマを〈ジュエル〉化させて、自分たちの世界に持ち帰り、黄泉返らせることができる。絶望だらけの日々に、光明が見えて来たかもしれない。
しかし、なにかに拒否されている。そんな力の働きも感じた。
後ろを振り返ってみると、入って来たはずの〈裁きの門〉は消えていた。
〈裁きの門〉は一方通行であり、元の世界に戻ることは本来なら不可能なのだ。
呪架は足元から噴出した熱い蒸気を後ろに跳躍して躱した。
遠雷に混じり、呪架の耳には妖異たちの呻き声が聴こえていた。
瘤だらけの赤い巨躯を持つ人型の鬼。
長い体毛を躰中に生やし、老婆のような顔を持った化け物。
四つ足の凶猛な野獣も多くいる。
呪架に殺到する怪物の荒波。
群から飛び出した巨大な怪鳥が、呪架の頭上に目掛けて滑空して来た。
鋭利な鉤爪を前にして呪架は全く動じない。
この感覚は久しぶりだ。血が煮え滾る熱い死闘。?向こう側?での生活が思い出される。
――狩りの時間だ。
呪架の放った煌きが怪鳥の躰を断絶した。
数え切れない獲物の姿を凝視して、呪架は両手から次々と妖糸を雨のように放つ。
激しい演奏を指揮する指揮者のごとく、躰全体を大きく動かして妖糸を振るう。
敵は次から次へと蛆のように湧いて来る。だんだんと呪架の手が捌き切れなくなって来た。
一掃する手はあるが、それを使う判断は正しいか?
もう、目の前にエリスがいるはずだ。ここで使わなければ、いつ使うのだ。
呪架の深い黒瞳が、より深く闇を帯びた。
敏速に動いた呪架の指先から、煌く線が放たれる。
その輝線は空に奇怪な紋様を描く――魔法陣だ。
呪架が叫ぶ。
「傀儡士の召喚を観やがれ、そして俺に屈服しろ!」
魔法陣の?向こう側?から、巨大な獣のような〈それ〉の呻き声が鼓膜を震わせた。
〈それ〉が豪快なくしゃみをすると、唾の飛沫が荒れ狂う嵐を巻き起こし、嵐は霧の巨人を創り上げた。
この場でなによりも大きな霧の巨人は、霧に包まれた中でただ一つ蒼く輝く目玉で、三〇メートルの高みから周りの小物たちを見下ろした。
脅えだす怪物ども。
だが、もう尻尾を巻いても無駄だ。
霧が怪物どもを呑み込み、叫喚とともに霧が紅く染まった。
先の見えない霧の中で、聴覚が研ぎ澄まされ、怪物どもが次々と惨死していくのを知覚した。
霧の巨人は興奮するように真っ赤に染まり、周囲の怪物どもは瞬く間に掃滅されてしまった。
だが、まだ遠くで呻き声がする。
「……クソッ」
呪架は呟いて、この場を引くことにした。
引くといっても出口はない。奥に進むのみだ。
乾いた大地を駆け抜け、灰色の水が流れる川の向こう岸に、テントやモンゴルのゲルに似た住居が並ぶ集落を発見した。
川の流れは遅いが、泥沼のような水に浸かれば外には出られまい。たちまち躰を捕られてしまうだろう。
渡れる場所はないかと川岸を沿って歩いていると、呪架の目に人影が留まった。向こうも呪架のことに気付いているようで、顔をこちらに向けている。
その者は異形だった。
背中に骨が剥き出しなった翼を生やし、弛んだ全身がスライムのようになってしまった存在。
顔は紙を丸めて開いたみたいに皺くちゃで、瞼が弛み過ぎて眼の位置すらわからない。
呪架は敵意がないと判断した。
目の前までやって来た呪架に異形が声を掛けようと口を開く。
「まだここに来て間もないようだが、どんな罪を犯してここに入れられた?」
嗄れ声は年のせいではなく、瘴気を含んだ空気に犯されているからかもしれない。
「自分の意志で来た」
「そんな馬鹿な!」
皺に隠されていた眼がカッと剥き出された。
異形は興奮した様子で息を荒立てて言う。
「ここがどこだか知っているのか? ここはまさに〈地獄〉だ、望んで来る者などいるものかッ!」
「〈地獄〉?」
「そうだ、〈光の子〉に叛逆した咎人が閉じ込められる〈地獄〉だ。元々は〈光の子〉も叛逆者だったくせに、今では神を気取ってこんな世界をつくり出したのだ」
「〈光の子〉が叛逆者?」
「そんなことも知らないのか?」
呪架の知るはずもないことだった。
異形は納得したように頷いた。
「まさか、お前は人間か?」
「……そうだ」
少し答えるまでに間があった。人間の血は3分の1しか流れていない……。
異形は感嘆した。
「この世界に人間が閉じ込められたという話は聞いたことがない。お前がおそらくはじめてだ」
「そんな話はどうでもいい。〈光の子〉が叛逆者ってどういうことだ?」
「〈光の子〉と〈闇の子〉は仲の悪い双子だった。しかし、双子は考えることが似ている。二人は自分たちの仲間を引きつれ、我々の世界で叛逆罪を犯した。そして、仲間と一緒にリンボウ……とはお前たちの世界の名前で、その世界に閉じ込められたのだ」
今、呪架がいるこの〈地獄〉は〈光の子〉による再現なのだ。嘗て自分たちがリンボウに堕とされたように、自分に叛逆する者を閉じ込めるためにつくった牢獄。
異形はさらに話を続ける。
「仲の悪い双子はリンボウに堕とされたのちに、そこを自分のものにしようと覇権を争い、互いに思い描く楽園を創造しようとした。果て無き戦いは人間誕生以前からはじまり、アトランティス、ムー、レムリアと楽園計画はすべて失敗に終わった。私も嘗ては楽園を夢見たが、楽園など所詮は夢幻なのだ」
〈光の子〉と〈闇の子〉の姉妹喧嘩に自分の運命が巻き込まれたのだと感じ、呪架は激しい憤りを感じた。
幼い頃に母と過したささやかな幸せが、実は大きな幸せだった。それを壊した者がいる。
呪架はここへ来た目的を再確認した。
「エリスという人を探してこの世界に来た。知らないか?」
作品名:ヴァーミリオン-朱- 作家名:秋月あきら(秋月瑛)