ヴァーミリオン-朱-
第3章 冥府の母
《1》
雨の中を傘も差さずに呪架は歩いていた。
マドウ区は女帝のお膝元とも云われ、魔導産業で栄えた街だ。
外から魔導師たちの移民も多く、居住地区と産業地区に分かれている。居住地区の一角は魔導成金の屋敷が立ち並び、ゴシックやバロック建築などの芸術性に富んだ屋敷も多く見られる。
呪架がやって来たのはマドウ区がもっとも魔導区らしい場所。
毒々しい紫や桃色の煙を立ち昇らせる煙突や、危険な香りを孕んだ空気。
雨水が流れ込む排水溝では、スライムに酷似したブラックウーズが溝から外に這い出す光景も見られた。
呪架が足を止めた前には小さな個人病院があった。
――マルバス魔導病院。魔導街の住民ならば誰もが知る病院だ。病気の治療のみならず、悪魔の業を持った院長が肉体の機械化や妖物との合成もやってのける。
呪架はすでに下調べはしていた。
ここでならば、異形化した腕を治せるかもしれない。
待合室には生きた人間はおらず、棲み憑いた亡霊の数の方が多かった。
受付の看護婦の顔は魚の鱗で覆われていた。
その程度で恐れる呪架ではない。
ちょうど今の時間は患者が居らず、呪架はすぐに診察室に通された。
診察室は手術室と同じ部屋で、部屋の隅に置かれたデスクに白衣姿が背を向けて腰掛けていた。
丸椅子を回して医師が顔を向ける。
気高い獅子の鬣を生やしたその顔は獅子そのものであった。
靴を履いていない足は蹄が見えている。
半獣人として有名なマルバス院長に間違いなかった。
院長の向かいの椅子に腰掛けた呪架はローブの袖を捲くって異形の腕を見せた。
「この腕を人間の物に戻して欲しい」
「なかなかうまい合成だ。どこの病院で手術した?」
異形の腕を触りながらマルバスは感心したように嗄れ声で言った。
「違う。空間を飛ばされたときに事故でこうなった」
「〈狭間〉に棲んでおる怪物のことか?」
「詳しいことまでは知らない」
「このままでも十分に美しいと思うが?」
「冗談じゃない、俺は傀儡士だ。元の腕に戻さなきゃ戦えない!」
椅子から立ち上がって呪架が激怒した。それに対抗してマルバスは牙を覗かせ気高く吼えた。百獣の王の顔に相応しく、その咆哮は威厳に満ち溢れていた。
心を鎮めて呪架は再び椅子に腰掛けた。腕を治してもらわなければならない。こんなところで揉めている場合ではない。
「怒鳴って悪かった。けど、俺には元の腕が必用なんだ」
「クグツシとは闇の傀儡士のことか?」
「知っているのか?」
呪架は傀儡士が世界にどれだけいるか知らないが、あまりポピュラーなものではないと思っていた。
「知っておる。裏の社会では魔人蘭魔の名は有名じゃった。そうだな、最近では二〇年ほど昔に紫苑という傀儡士の殺し屋と会ったことがある」
「紫苑?」
祖母の名前だ。もしかして祖母も傀儡士だったのか?
すかさず呪架は訊いた。
「どんな奴だった?」
「白い仮面を被っておって、中性的な声を発するので男とも女ともつかない、魔性の者だった」
ダーク・シャドウ――あいつが紫苑なのか?
違う、祖母の魂は〈裁きの門〉の奥にあるはずだ。
悩む呪架にマルバスはさらに悩みを与える発言をする。
「実は蘭魔にも会ったことがあっての、紅いトンビコートが印象的な男じゃった」
鮮やかに紅い姿。
「トンビコートってどんなのだ?」
「コートとケープは一体化した物で、インバネスなんて呼ばれ方をすることもあるな」
その説明を受けても呪架は理解に苦しんだが、それがダーク・シャドウの姿だと直感した。
ならばダーク・シャドウは蘭魔なのか?
もうひとり、呪架は紅い男を知っていた。
セーフィエルに送られた精神界で出会った紅い男。
悩んでいる呪架の顔をマルバスは先ほどから注視していた。
「もしかして、お主は愁斗の子か?」
これに呪架は驚いた。
「お父さんを知っているのか?」
「あの男の治療をしたことがあっての、代償として?両腕?をもらった」
「なんだって?」
傀儡士の父が両手を代償に払うわけがなかった。
「ただし、死んだあとで良い約束じゃった。その腕がこの病院にある」
「まさか……お父さんが死んだのか!?」
「儂自ら死んだ愁斗の腕を切ったので間違いない」
二親ともこの世にはいない。父親の顔など知らないが、死という結末は呪架にとって衝撃的なものであった。
呆然とする呪架を残してマルバスが姿を消したかと思うと、金属製のケースを持って帰って来た。
「冷凍していた愁斗の右腕じゃ。これをお前の腕に付けるぞ」
「サイズだって違うはずじゃないか」
「重要なのは霊気の相性じゃ。サイズの調節ができぬようでは、一流の魔導医とは言えぬ」
「わかった、お前の言葉を信じよう。けど、手術に失敗したらおまえを八つ裂きにしてやる!」
すぐに手術は行なわれることになり、血は出ないが邪魔なローブを脱げとマルバスに言われ、呪架は逆らわずにローブを脱ぎ捨てた。
ローブの下はほぼ裸だった。上半身はなにも着用しておらず、下は?こちら側?に来てから手に入れたスパッツを穿いていた。
女だということを晒してしまったが、今は腕を治してもらうことが重要だった。
冷たい手術台に寝かされた呪架の腕にメスが入ろうとしていた。
「麻酔はないのか?」
尋ねる呪架にマルバスは笑った。
「痛みはない。血も出ない。メスを入れる角度と切り方にコツがある。あとは儂の魔力じゃな」
鋭いメスが異形と人間の境に入る。痛みはなく、血も出ていない。神業ではなく、噂どおりならば悪魔の技だ。
手術は一〇分足らずで終わった。
新しい腕は完全に呪架の躰に融合していた。傷痕が微かに残っているが、数日で消えてしまいそうな痕で、動かしても痛みはない。
もしかしたら前よりも使い勝手がいいかもしれない。指先の繊細の動きが前にも増して切れがある。
手術の代償をまだ訊いていなかった。この医師は金ではなく、別のモノを要求すると云う。
「この手術の代償はなんだ?」
「儂はこの手術をする前に、ある者と契約を交わしておった」
呪架には思い当たる節があった。罠かもしれないと思ってここに来た。やはりその通りだったようだ。
「儂の〈虫籠〉に入ってもらう」
「〈虫籠〉ってなんだ?」
マルバスは答えずに指を鳴らした。と、同時に呪架が消失した。
《2》
呪架は刹那に巨大な檻の中に移動させられていた。檻というのは語弊があるかもしれない。そこは大きな〈虫籠〉だった。
木枠の向こう側には果てない灰色が広がっている。
呪架は人ならぬ気配を感じた。
予期していなかった事態が呪架を待ち受けていたのだ。
傀儡エリス。
壊れたボディーパーツは直され、質素なドレスを着せられている。
「なぜここに?」
エリスの躰が動き出した。
誰が操っているのか、それは愚問であった。
妖糸が放たれた――エリスの手から。
直ちに放たれる呪架の妖糸がエリスの妖糸を相殺し損ねてしまった。
呪架の頬に奔った紅い筋。
作品名:ヴァーミリオン-朱- 作家名:秋月あきら(秋月瑛)