珈琲日和 その12
「そろそろ帰りましょうよ」言われた男性は軽く頷いて、カップを拭いていた僕に向かって「すいませんっ!会計をお願いしますっ!」と例の爽やかな大声で言いました。それを口切りに4人それぞれ帰り仕度を始めたのです。空気が一気に和らいで、心なしか男性陣の表情が心底ほっとしているようにも見えてなんだかおかしくなりました。
そうそう。僕も若い頃はよくああして、若い同僚の女の子の愚痴や、妻の不平不満を聞いたりしていたっけ。その時は、正直自分の事で手一杯で、どうでも良かったな。聞いているのだけで精一杯だった。それ以上なんてなにも出来なかったし、きっと彼女達にしてみても、ただ聞いて欲しいだけで、それに対しての相手のコメントなんて求めてもいなかったのだろうから、きっとあれで良かったんだろうと今になっても思ってしまうのです。
4人はお会計を済ませると、小柄な男性を先頭にして颯爽と店を出て行きました。それにしても、あの男性はまだ歳若いのに、本当に人間が出来た方だなぁと同性ながらにしみじみと感心しました。同世代に慕われるきっといい漢になるでしょう。
「その人 会ってみたい」
冬の昼下がり。遅めの朝食を取っていたシゲさんと、休みに立ち寄ってくれた彼女に、4人の話をしたところ、それまでカフェロワイヤルを両手で包み込んでじっと聞いていた彼女が開口一番そう言ったのです。すると、シゲさんが食べていたカレーを吹き出すんじゃないかと思う程、吹き出して大笑いをしました。
「なんだ、早くもライバル出現かぁ? こりゃあ、うかうかしてられんねぇマスター」と、ふざけたように僕の顔をにやにや笑いながら見てきました。内心、僕もそんな事を言った彼女にショックでした。確かに同性でも惹き付けられてしまう雰囲気を持った方でしたが、話だけでそんな事を思うなんて。しかも僕に勝ち目はありそうもないのです。
「その人 また来るかしら?」紅色をした椿柄の入った黒縞の着物を着こなした彼女はとても真剣な眼差しをして、ショックを受けている僕の心情には全く構わず聞いてきました。
「さ さぁ・・・ ど うだろうか・・・」沌惑しながら答える僕を見て、シゲさんがさもおかしいといったように含み笑いをしています。憖色々と知っている相手だと、こんな時にはかえって気恥ずかしいものです。だのに、彼女はまったく真剣そのものなのです。
「別嬪さんはそんなにその男の事が、気になるんか? 話を聞いただけなのに? だけども、誰かの話は余計なもんがくっついてる事が多いから、事実と違う事だってあるんだよ」
なにも聞けない情けない僕に代わって、シゲさんが彼女に訊ねました。
「もちろん。そんなのわかってる。それでも会ってみたいと思うの。いけない?」
彼女がその黒いガラス玉のように透明な表情の読めない瞳を僕とシゲさんに向けて不思議そうに聞き返してきました。
「いーや。どうぞご自由に。なぁマスター?」シゲさんはにやにやしながら僕を見て、意味ありげに軽く肩を竦めました。
「そう だ ね。君の好きにすれば いい」なんとかそう答えましたが、実際また彼らが訪れるとも思えなかったのもありました。彼らはあの夜に間違ったように偶然来店されたのです。本当は駅前のファミリーレストランに行くつもりだったけれど、混雑していた上に待ち時間が長かったから、なんとなくこっちに来たと話していたのですから。
数日後の木枯らしが吹く、寒い夕暮れでした。今日の夜はおでんにでもしようかと考えながら、CDを選んでいますと扉が開いていつかの男性3人がいつかのように颯爽と入って来られました。今日は女性は一緒ではないようです。肩を縮込ませてポケットから出した手を擦りながら、爽やかな声をした彼が僕に今晩はと会釈をしました。それから、3人でカウンターに並んで座りブレンドを2つとモカジャバを1つ頼まれました。
「なんか通っぽいの頼んでるんですけど、モカジャバって なによ?」と、不振そうな表情をした彼が、モカジャバを頼んだ小柄な男性に聞いていました。ところが小柄な男性もメニューを見て適当に頼んだらしくわからないようで、さぁ・・・と答えています。
「カフェオレにチョコレートシロップとホイップクリームを混ぜたものです。かなり甘めな珈琲ですが、先日かなりブラウンシュガーを入れていらっしゃったのでいける口かと」
僕が説明すると、彼らはへぇー・・・とまるで子どものように納得していました。まだまだ若いあどけなさの残る対応に懐かしさすら覚えました。僕にもこんな頃があったなぁ。
男はいつまでも少年だと言うけれど、現にこうして自分よりも歳若い初々しい人達を目の前にすると、自分は気付かないうちに随分歳を取ったのだなとつくづくと実感するのです。男が歳をとったと感じるのは気持ちや精神面なのだと僕は思うのです。
女性と違って幾通りもの様々な生きる道をあまり選べない男は、どうしても社会で踏ん張って、なにかを守ったり築いたり戦ったりして生きていかなければいけません。なので、その為に必要な一般の知識や仕事での顔を持ってはいますが、外見がいくら変わっても自意識や気持ちが変わらなければ、いつまでも不器用な少年のままなのです。男とはそういうものです。けれど、一体、いつ少年から青年になって、いつ大人の男になってしまうのでしょうか?
仕事の話をあれこれと和んだ表情で話し合う彼らは、彼らに待っている未来が無数の可能性を秘めて輝いているように意欲や闘志が滲んでいるように逞しく見えました。それにつけても、あの女性は堪え切れなくなって辞めてしまったのでしょうか?
「お待たせしました」僕はそっとブレンド2つとモカジャバをお出ししました。
「ありがとうございますっ!」3人が揃ってお礼を言ったので、なんだか僕の方が照れてしまいました。どういたしましてと口籠りながら、僕はNuovo Cinema Paradisoをかけました。店内に優しい音楽がじんわりと滲みるようにゆったりと溢れ出しました。
「うっわ。なんか泣きそうな音楽流れてきたー」
「いいですよね、この映画。うちの親父が好きで」
「俺知らない。なんて映画?」
少年が男になる時・・・か。若い彼らの会話を聞きながら、僕はお皿を洗いつつそんな事を考えていました。なにを取ってそう感じるのか基準は曖昧ではあるけれど、中には青年期なんか軽く飛ばして漢になってしまうような少年も、きっといるのだろうな。僕は3人の様子を視界の隅で見守りつつ片付けものをしていました。ふと、窓際のテーブル席で分厚い原稿用紙に突っ伏すようにして一心に万年筆を動かしている初老のお客様が一瞬3人の若者を見て、にやりと笑ったような気がしました。すると、俄に扉が開いて黒いコートに身を包んだ和服姿の彼女が風のように入ってきたのです。なんてタイミングだと僕は内心慌てて思わず持っていたお皿を落としそうになりました。