珈琲日和 その12
彼女はいつものように上品な仕草でコートを脱ぐと、カウンターの端に腰掛け、カフェロワイヤルを注文しました。そして煙管を取り出してゆっくりと吸いながら、カウンターの反対側に陣取っている彼らを物珍しく観察でもするかのように見つめていました。一体彼女はいつ彼らが僕の話していた人達だとわかったのでしょうか?
彼らはすっかり話に夢中になっていて、彼女の視線には全く気付いてはいませんでしたが、1人、例のリーダー格の彼だけが彼女の視線に気付いて、他の2人の声の音量を落とさせたのです。そして、彼女に向かって真面目な顔で申し訳なさそうに詫びたのです。
「騒がしくしてしまって 誠に申し訳ない」そう言って、彼は頭を垂れました。
「大丈夫。構わないわ」と、彼女は微笑みました。
「それ、なに飲んでるんですか? さっき火出てたけど」人懐っこそうな眼鏡の男性が彼女のカフェロワイヤルを指して乗り出しながら聞いてきました。
「なんだっけ?」と、本当は知ってるくせに彼女が小首を傾げて僕に聞いてきました。
「カフェロワイヤルですよ。燃えていたのはブランデーを染み込ませたキューブシュガーです」些か複雑な心境の僕は憮然と答えました。
「へぇー あんな色で燃えるのか。本格的っすね」と彼が感心したように言いました。
「どう致しまして」彼女は細く煙を吹き出しながらそんな事を返しました。なんだか変なやり取りです。又しても窓際のお客様がこちらを見てにやりと笑ったような気がしましたが、僕がそちらを見ると、その方はこちらの様子等関係ないとばかりに原稿用紙相手に念話でもしているように脇目も振らずに執筆を続けているばかり。まるでにやりと笑っては、出現したり消えたりする不思議の国のアリスのチェシャ猫にからかわれてでもいるような、おかしな気分です。アラジンストーブの矢車菊のような炎を眺めながら、僕はぼんやりと昔の事を思い出していました。青い炎とは不思議なものです。普通の赤い炎では浮かんでこないような、昔の、すっかり忘れていたような感情や気持ちがぼんやりと思い出されてくるのです。
「ねぇ、大丈夫?」
彼女に声をかけられて、僕は我に返りました。気付くと3人の歳若いお客様は慌ただしく帰り仕度を始めていました。彼女は僕を心配そうに見つめながら続けました。
「急な用事が入ったみたいだから、お勘定をしてあげて」
「 わかったよ」まだぼんやりしていた僕は曖昧に返事をしました。
光っている携帯電話を胸ポケットに入れて、黒いコートを着た彼が代表して3人分のお勘定を済ませました。
「申し訳ない。また近々寄らせて頂きますんで。ご馳走様でしたっ!」と彼は律儀に気持ち良く言って、笑顔でご馳走様ですと挨拶をする他の2人より先に外に出ていきました。
残った彼女はしばらく煙管を吸っているだけで何も言おうとはしませんでした。音楽が止み、僕はholly coleをかけました。店内はやけにしんとして、まるでノイズキャンセルヘッドホンをつけた巨大な真空の中にでもいるような澄んだ空気が漂っていました。
「会えて、満足した?」僕は少し遠慮気味に彼女に訊ねてみました。
「満足したとか、しないとかの問題じゃないわ」と、彼女は僕を見もせずに些か乱暴に答えた。怒っているのだろうか? どうして彼女は怒っているんだ? 訳がわからない。
僕は深いため息をつきながら、窓際のお客様の様子を伺ったが、その方は変わらない姿勢で万年筆を動かし続けていました。よく使い込まれた飴色の万年筆は、まるでその方の腕や意思とは関係なく、好き勝手に原稿用紙の上をあっちこっちへ踊り狂っていました。そのままその方は閉店まで粘っていましたが、とうとう重い腰を上げました。
「どれ、雪が降って来る前に退散するか」分厚いコートを着ながら、その方は呟きました。
「どうぞ、お気をつけて」そう言ってお釣りを渡した僕に、その方は白髪混じりのごま塩色の鼻毛を抜きながら、意味深ににやりと笑って言いました。
「若さは雪みたいなもんだ。本質の愛情はなかなか見えん」
店を閉めてから彼女との帰り道。おでんの具材の入ったビニール袋を揺らしながら、人気のなくなった暗い並木道を夜の散歩のようにのんびりと歩いていた。
「・・・僕はあの頃、君をたくさん傷付けていた」
ぽつりと零した僕の言葉を咀嚼するように味わってから、彼女は真っ白い息と一緒に言葉を吐き出した。それは台詞の吹き出しみたいで、そこに恰も彼女の言葉が見えそうだった。
「それは致し方ないと思う。私だってそうだった。若いって、きっとそういう事なのよ」
彼女は僕の隣で、分厚いマフラーに寒さで赤くなってしまった鼻の下まで埋まりながら、ごくゆっくりとした歩調で履いているブーツのヒールの音を鳴らしながら歩いていた。引き締まるような夜の寒いコンクリート道路に彼女の足音は、いやに小さく頼りな気に響いている。僕は冬支度の済んだ枝木が影絵のように連なる罅割れたような漆黒の夜空を見上げた。
夜空には星が瞬いていた。オリオンの3つ星。もう何十年も見てきた星だった。
「僕は、大人の男になったんだろうか?」
そう問いかける僕を彼女は横目で見ると、煙管を取り出してマッチを擦って火をつけた。マッチの火は小さいのにとても明るく温かそうな色をして燃えてあっという間に消えた。
「わからない。でも、少なくとも、そうやって振り返って償おうと考えられるようになったって事は、大人になれたんじゃないかしら?」通常よりも何倍も白くてずっとたくさんの煙を細く吹き出しながら、彼女が言った。僕は苦笑いをしてしまった。
「なんだか若いと思いやりが足りないみたいな言い方だけど、そんな事が証拠になる?」
「なると思うわ。若い時は、まだこれから先いくらだってどうにでもなるって、誰かを傷付けても構わず、償う時間ももったいないからって脇目も振らずに、ただ突っ走っている所があるけれど、ある程度になって落ち着いて歩き出すと、自分と同じ歩調かそれより後ろを歩いている人の事を、余裕を持って見れるようになるし手を差し出せるようになる。自分に急いでいないから、自分以外の周りの事を考えられるようになるのよ。その違い」
彼女は風に吹かれて唇に張り付いた髪の毛を払いながら、恥ずかしそうに笑った。
「でも彼らは、私達なんかよりずっとしっかりしている。ひょっとしたら、可能性が詰まったあの頃のあなたに会えるかもと思ったんだけど、どうも私の早とちりだったみたい」
「なんだそりゃ」僕が呆れて言うと、彼女は残念そうに大きなため息をついた。彼女の髪の毛に白い塵のようなものがくっ付いていたので、僕は取り除こうとそれを摘んだが、その白いなにかは跡形もなく消えてしまった。ふと彼女が空を仰いだ。
「雪・・・」
ぼんやりとした古く黒ずんだ写真のような漆黒の空からは、まるで湧いてくるように白い紙吹雪が、非現実を感じさせるような一定の速度で落ちてきていた。それは、幻想的で何処か切ないような眺めだった。溶けてしまう事がわかっているからかもしれない。
「雪は凍てつくような寒さの中でしか生まれない。だから、こんなにも人の心を惹き付けて美しいのね」彼女が感嘆の混じったため息をついた。